手結のとんどさん
ポール・ニューマンは自作を観ない
02年07月16日
日曜日のニューヨーク・タイムズ紙に、トム・ハンクス、ポール・ニューマン、そして映画監督のサム・メンデスの座談会が掲載されていました。公開が始まった映画「Road to Perdition」の出演者と監督が、製作裏話を披露しているのです。
「ギャング映画の典型的なパターンから抜け出す方法」や「感情や心にではなく、感覚に訴えがちになった最近の映画のダメっぷり」などが語られる面白い内容でしたが、いちばん驚いたのは、実は「Road to Perdition」とはあまり関係のない次のやりとりでした。
司会「(ポール・ニューマンに)『Road to Perdition』はまだご覧になっていないんですか?」
メンデス「実はポールは、自分が出演した作品で観ていないものがいくつかあるんだ」
ニューマン「この作品はたぶん観ると思うよ。準備ができたらね」
メンデス「『明日に向かって撃て!』はかなり傑作で、たぶん興味がわくと思うんだけどな」
ニューマン「さあ、どうかな。私は自分の映画をしばらくほっとくんだよ。そのうち、機械の歯車がカチッと動き出すような感じで、自分の映画を観る準備ができるんだ」
名作「明日に向かって撃て!」が公開されたのは1969年。「しばらく」どころか30年以上、機械の歯車は動き出さなかったわけです。ポール・ニューマンは今77歳です。私は唖然とし、「はたして彼は『明日に向かって撃て!』を観ることができるだろうか?」と心配になったのでした。(細田雅大)
映画「11'09''01 - September 11」
02年11月09日
「11'09''01 - September 11」という映画をご存じでしょうか? Alain Brigandというフランス人が音頭をとって製作した作品で、タイトルから分かる通り、昨年のテロ事件がテーマとなっています。面白いのはその構成です。世界各地で独自の映画を撮り続ける監督11人による、1本11分9秒のオムニバス作品となっているのです。例えば、イランからはサミラ・マフマルバフが、アメリカからはショーン・ペンが、フランスからはクロード・ルルーシュが、日本からは今村昌平が参加しています。
アメリカ以外の国々では、主にテロ1周年の9月11日に公開されたようですが、アメリカ国内では配給ルートが見つからず、まだ公開されていません。先日私は、コロンビア大学で開かれたアメリカ初となる特別試写会に、幸運にも参加することができました。「サラーム・ボンベイ!」や「モンスーン・ウェディング」を撮ったインド出身の映画監督ミラ・ナイールも11人のうちの1人なのですが、彼女がコロンビア大学で教えているのです。ナイールが、プロデューサーに個人的に依頼してフィルムを取り寄せ、ごく少数を対象に1回限りの試写会を開いたのでした。
それぞれ大いに、あるいは微妙に異なる11の視点を通して、「9/11」を捉え直すことができた貴重な体験でした。イラクへの侵攻が秒読み段階と目される今、一刻も早く、アメリカ国内でも一般上映されてほしいと思います。(細田雅大)
かわいそうなディカプリオ
03年03月05日
最近、ニューヨーク・タイムズを読むたびに「かわいそうなディカプリオ……」と思ってしまいます。作品賞、主演男優賞、監督賞など計10部門でアカデミー賞にノミネートされている彼の主演映画「Gangs of New York」の新聞広告のことです。
広告にはでかでかと「10 ACADEMY AWARD NOMINATIONS」と記されています。「ノミネート数を参考にして観にいく映画を決める人が多いはずだ」と関係者は考えているわけです。「アカデミー賞を取るようなタイプの作品を嫌う映画ファンもたくさんいるのにな」と私は思いますが、映画界最大の賞の影響力はやはり無視できませんから、まあ、これぐらいは許しましょう。
しかし、広告に使われている写真が、監督のマーティン・スコセッシ、共演のダニエル・デイ-ルイスのものだけで、ディカプリオのものが1枚もないのは、ひどいのではないでしょうか。
つまり、監督賞候補のスコセッシ、主演男優賞候補のデイ-ルイスだけが扱われ、何の候補にも挙がらなかったディカプリオはほとんど無視された広告になっているのです。自分が主演したはずの映画なのに、いつの間にか片隅に追いやられているかわいそうなディカプリオ……。
ところで、もしスコセッシもデイ-ルイスも受賞できなかった場合、翌日の新聞広告では、キャメロン・ディアスとともにディカプリオは復活するのでしょうか?(細田雅大)
トライベッカ映画祭
03年04月21日
テロに直撃されたマンハッタンの復興につなげようと、昨年、俳優のロバート・デ・ニーロらがトライベッカ映画祭を始めました。今年、第2回目となる映画祭が5月3日から11日まで行われます。そして現在は、報道関係者を対象とした出品作の試写が行われています。
休日となった先週の金曜日、私もヤマモーとともに試写会場に足を運びました。午前11時から午後9時まで計5本の作品を連続鑑賞したのですが、受付の女性やほかの報道関係者に驚かれてしまいました。ある男性記者には「君はすごくスクリーンに義理堅いね(You are so loyal to screens)」と言われました。「loyalにはそんな使い方もあるのか」と彼の英語表現に感心したのですが、1日5本ってやっぱり多すぎたのかもしれないですね。(細田雅大)
フレディ対ジェイソン 勝つのはどっち?
03年06月13日
私は子供のころ、「トラとライオンはどっちが強いんだろう?」とよく悩みました。子供なりに自分で調べてみましたが答えは出ず、親に尋ねたりしたものです。親が何と答えたか覚えていませんが、きっと困ったのではないかと思います。
さすがに大人になってからは、もうそんな疑問を持つことはありませんでした。しかし先日、本当に何十年ぶりかで、「トラ対ライオン」問題に悩んでいた時の感覚がよみがえりました。映画「エルム街の悪夢」シリーズのフレディと「13日の金曜日」シリーズのジェイソンが戦うというのです。8月15日に公開される映画「Freddy VS. Jason」のことです。
皆さんご存じかと思いますが、いちおう説明しておくと、ジェイソンというのは、白いホッケーマスクをかぶっている不死身の怪物です。そしてフレディというのは、長いかぎ爪を付け、人々を自在に悪夢に導く顔面の焼けただれた化け物です。
私の興奮は冷めず、誰彼かまわず「すごい映画が公開されるよ。これは必見だね!」と教えています。しかし「そんな映画を観に行くのは時間と金の無駄だ」という声が多いのはなぜでしょう? 「座頭市 VS. 子連れ狼」「水戸黄門 VS. 大岡越前」「金八先生 VS. 寅さん」などの組み合わせまで連想してしまうほど、私は興奮しているのに。(細田雅大)
「28日後...」の別エンディング
03年07月25日
猿を使ってウィルスの実験を行うイギリスの研究所に、過激な動物愛護運動家たちが侵入する。研究所のスタッフは「猿は伝染性のウィルスに感染していて危険」と警告するが、運動家たちは猿を檻(おり)から解放してしまう。凶暴な猿は運動家たちを襲い、ウィルスは瞬く間に人間の世界に広がっていく……。ウィルスの名は、Rage(憤怒)……。
「トレインスポッティング」などで有名なダニー・ボイル監督の最新作「28 Days Later(邦題:28日後...)」のストーリーです。ジョージ・A・ロメロ監督の古典的な「Zombie: Dawn of the Dead(ゾンビ)」「Day of the Dead(死霊のえじき)」との類似が気になって楽しめなかったという声もあるようですが、私は気になりませんでした。「28 Days Later」は、あまたのB級ゾンビ映画とは一線を画す、丁寧にしっかりと作られた良い映画だと思います。
現行のエンディングに4分間の別のエンディングが追加された新バージョンの「28 Days Later」が、今日から公開されています。実はこの映画、イギリスでは去年の10月に公開され、今年の5月にはDVDも発売されました。DVDには、公開時に削除されたシーン、監督・出演者のコメントなどが付録として付いてきます。そこで「もう1つのエンディング」の存在が注目を浴び、ファンの要望を受けて今回の新バージョンが作られたようです。今後も、同じような手法でファンの気を引こうとする映画が現れるかも知れません。
最初のエンディングに続いて、「But what if,」という文字が画面に現れ、より暗く絶望的になっているという「もう1つのエンディング」は始まるそうです。たった4分間の追加シーンのために、もう1回金を払う価値があるかどうか私は悩んでいます。でも、好きな映画は何回観ても楽しいので、きっとまた観に行くと思います。(細田雅大)
腐れトマトで映画を判断
03年07月28日
毎週たくさんの新作映画が公開されます。全部観てみたいところですが、それは不可能。どれを観に行き、どれを黙殺すべきか。私が参考にするのが「ROTTEN TOMATOES: Movie Reviews & Previews」というウェブサイトです。公開中そして近日公開の映画の批評記事を集められるだけ集め、誉めている批評と貶(けな)している批評がそれぞれいくつあるか集計しているサイトです。
誉めている批評の割合はTOMATOMETER(トマトメーター)と名づけられ、60%以上であれば「FRESH」(新鮮なトマト)、60%未満であれば「ROTTEN」(腐ったトマト)と分類されます。
ちなみに、03年7月28日の時点で、興行成績上位5作品のTOMATOMETERは以下の通りです。
Spy Kids 3-D:48% ROTTEN(全93評)
Pirates of the Caribbean:78% FRESH(全149評)
Bad Boys II:27% ROTTEN(全124評)
Lara Croft Tomb Raider:23% ROTTEN(全94評)
Seabiscuit:79% FRESH(全121評)
ところで先日、ボブ・ディラン主演の映画「Masked and Anonymous」のトレイラー(予告編)を観たのでした。刑務所から出所したばかりのフォーク・シンガーJack Fateを演じるディランの渋さにしびれた私は、本編も観に行こうと考えていました。そして、試しに「ROTTEN TOMATOES」で調べてみると……
Masked and Anonymous:6% ROTTEN(全17評)
ろ、6パーセント!
誉めている批評がたったの1つ!
私はちょっと唖然とし「観に行くのやめようかな」と一瞬思いました。
誉めているという批評を読んでみました。「混乱している映画かと聞かれれば、答えはイエス。不完全かと問われれば、まったくその通り。不可解な作品である。つまり、あなたの解釈次第ということなのだ」と書かれています。
……うーん。本当に誉めているのか。
でもやっぱり観に行きます。97年の「Time Out of Mind」、01年の「Love and Theft」と傑作アルバムを発表し(先日は日本人作家の本からの盗作騒動なども巻き起こし)、何度目かのキャリアのピークにあるディラン。しなびて、今にも枯れ尽きそうな風貌。ガマガエルも美声に聴こえるダミ声。謎めいた仙人のような眼差し。私にとっては、大画面で動くディランが見られるだけで価値があるのです。(細田雅大)
ディランの映画「Masked And Anonymous」
03年08月11日
舞台は、近未来のアメリカ。革命が勃発し、すでに先進国ではなくなってしまった様子。革命を指導した大統領は病床に臥し、臨終を待つばかり。混乱し、無法状態となった国に平和をもたらすため、慈善コンサートが企画される。そのトリを務めるため、刑務所からジャック・フェイトという歌手が呼び出されるが、コンサートの準備は遅々として進まない………。
本欄で以前に紹介したボブ・ディラン主演の映画「Masked and Anonymous」のストーリーです。映画批評サイト「ROTTEN TOMATOES」の“トマトメーター”は、8月10日の時点で15%(肯定6評・否定33評)となっています。前回の6%よりは上昇していますが、相変わらず「腐ったトマト」のような映画だと評価されているわけです。
“トマトメーター”が15%にしかならないのは理解できる気がします。それでも私はこの映画を楽しむことができました。もちろん私がディランのファンだからですが、それだけが理由ではないようにも思います。
まず、ジェフ・ブリッジス、ジョン・グッドマン、ジェシカ・ラング、ヴァル・キルマー、ペネロペ・クルスと、共演者が豪華です。そして、そのペネロペ・クルスが「ジャック・フェイト(ディラン)の歌が好きだ」と言うシーンがあります。
「Because they're not precise, they're completely open to interpretation.(だって彼の歌は正確じゃないもの。完全に私たちの解釈次第なのよ)」
そして、ジャック・フェイト自身は次のように語ります。
「I stopped trying to figure everything out for a long time ago.(すべてを理解しようとすることは、ずっと前にやめたんだ)」
「この2つのセリフは『Masked and Anonymous』という映画自体にも当てはまる」という論を立て、本作を擁護している批評をいくつか目にしました。たしかに本作には箴言(しんげん)めいた難解なセリフがたくさん出てくるようです(Sergei PetrovとRene Fontaineという人物が脚本家としてクレジットされていますが、どちらかがディランの変名だと考えられています)。
私の場合、一般のアメリカ人観客よりも、この2つのセリフが意味するものは大きくなります。英語が話され、日本語字幕など付かない映画を、不完全な聴き取り能力で理解しなければならないからです。どんなに頑張っても、すべてのセリフを聞き取ることはできません。「Masked and Anonymous」に限らず、あらゆるアメリカ映画は私にとって、大なり小なり「解釈次第」なのであり、「すべてを理解」することはできないのです。
一般のアメリカ人観客にとっても「解釈次第」な映画なのですから、もともと「解釈次第」な私にとっては、「解釈次第」の二乗です。「今、ヴァル・キルマーがこう言って、ディランがこう返答したに違いない。凄い!」という具合に、自分の好きなようにストーリーを作り上げていきました。だから私はこの映画を楽しめたのだと思います。
逆に言うと、日本語字幕付きのものを観たら意味が限定されてしまい、とたんにあくびを連発し出し、上映後30分で席を立つことになるかも知れません。(細田雅大)
ショーン・ペンに比べりゃみな大根
03年10月10日
クリント・イーストウッド監督・ショーン・ペン主演の「Mystic River」。今、私がいちばん観たい映画です。もともとイーストウッドが監督した作品が好きなのですが、「Mystic River」の場合、劇場で最初に予告編を観た時からしびれてしまいました。夜が明けたばかりのような海もしくは湖沿いの土地。上空から俯瞰(ふかん)しつつ、ゆっくり移動していくカメラ。そこにかぶさるイーストウッドの声と静かな音楽……。
10月3日のニューヨーク・タイムズにA. O. Scottという記者の「Mystic River」評が掲載されました。予想通り称賛していますが、ショーン・ペンの演技については、ちょっと異常ではないかと思えるほどの褒め方でした。訳してみます。
-- ペンに対しては、どんな称賛の言葉も十分ではない。Jimmy Markum(ペンの役柄)は、今年最高の演技というだけでなく、ここ半世紀の映画における、最も完全で正確な演技なのだ。アクターズ・スタジオで開始され、ブランド、ディーン、パチーノ、そしてデ・ニーロを生み出したリアリストの伝統の、最高到達点なのだ。
-- ペンもまた、そうした先駆者たちと同じように才能に恵まれ、よく鍛練されている。しかしペンは、先駆者たち全員を、言わば、俳優に過ぎないと思わせてしまう。先駆者たちが(スタニスラフスキーの)メソッド・システムを用いてアメリカ映画に導入した直截さと力強さを維持しながら、ペンは芝居がかった振る舞いを演技からことごとく取り除いているのだ。圧倒的な演技であるにも関わらず、ほかの出演者の演技を侵食していないのがその明白な証拠だ。
どうでしょう? マーロン・ブランドやロバート・デ・ニーロを「俳優に過ぎないと思わせてしまう」というペンの演技。この批評を読んで、「Mystic River」がますます待ち切れなくなりました。(細田雅大)
集団映画鑑賞のススメ
03年10月30日
大学生の時、ゼミの全員が同じ本を少しずつ読み進め、話し合うという機会を持ちました。これがとても楽しかったので、社会人になってからも時々読書会を開いてきました。話し合うことで謎が解けることもあれば、新たな疑問が見つかることもあります。
先日、本ではなく映画でこれをやりました。以前本欄でも触れたことのあるクリント・イーストウッド監督の「Mystic River」を集団で観にいったのです。映画の舞台はボストン郊外の町です。ボストン訛りというのがあるのでしょうか、時々台詞が聴き取れませんでした。また、なかなか込み入ったストーリーなので、一部の台詞が聴き取れなかったために、ストーリーがつかめなくなったりもしました。
そのため、鑑賞後の話し合いが有意義なものになりました。自分は聴き取れていなくても、ほかの誰かが聴き取れていたりするので、ストーリーを再確認できるのです。一方、話し合うことで、新たな疑問も見つかりました。
そして私たちは、もう一度「Mystic River」を観に行ったのです。どのシーンがカギとなるか既に分かっている今回は、1回目よりもずっと多くを理解できました。鑑賞後の話し合いは、ストーリーの確認というよりは、ストーリーの解釈、映像作品としての解釈に重点が置かれ、またもや楽しく有意義なものになりました。
「Mystic River」の力なのか、それとも集団鑑賞会の力なのか、一部の参加者は、翻訳された原作(早川書房刊)を読んで映画と比較したり、英文の原作を読み始めたりしています。ちなみに、原作と映画を比較した参加者は、「非常に珍しいが、原作を消化して、なおかつ映画の方がより深いところに達している」「映画で付け加えられた台詞の重みには、真に驚倒すべきものがある」と結論付けています。
どの映画を観るかにもよると思いますが、映画の集団鑑賞とその後の話し合いはとても楽しいものだと分かりました。皆さんにも強くお勧めいたします。(細田雅大)
脚本と脚色
03年11月14日
ニューヨーク・タイムズ・マガジンの11月9日号は映画特集でした。まず表紙に目が引きつけられます。雪の降る夜、映画館のチケット売り場に人々が集っています。よく見てみると、チケット売り場の売り子がスカーレット・ヨハンソン、ちょうど今チケットを手に入れたばかりのゴージャスなカップルがジョージ・クルーニーとユマ・サーマン、待ち合わせをしているらしき初老の男がベン・キングズレー、そしてボロボロのペーパーバックを読みふけっている若い男がユアン・マクレガーという豪華な表紙です。
私がいちばん楽しく読んだ記事は、クエンティン・タランティーノとブライアン・ヘルゲランドの対談でした。タランティーノについては、多くの皆さんがご存知でしょう。94年の「パルプ・フィクション」でいちやく時代の寵児(ちょうじ)となり、最近「キル・ビル」で復活した脚本家兼映画監督です。
ブライアン・ヘルゲランドは監督としてよりは脚本家として有名で、代表作に97年の「L.A. コンフィデンシャル」があります。イーストウッド監督の「ミスティック・リバー」の脚色(小説などから映画脚本を作ること)も担当しており、これが新しい代表作になりそうです。
この2人が映画の脚本について話し合っています。タランティーノのおしゃべり好きは活字になっても明らかで、つい微笑みながら読み進めてしまいました。以下、面白かった箇所を抜粋してみます。
●脚色とオリジナル脚本の違い
ヘルゲランド「脚色っていうのは複雑だ。オリジナル脚本とは違う達成感がある。より簡単なんだけど、より厄介でもある。オリジナルの場合、井戸を掘っていたら石油が出てきたっていう感じなんだ。でも脚色の場合、油井はすでに火の海で、まず火を消して、そしてきちんと動くようにしなければいけない。つまり脚色は、姉さんが育ててきた10歳の子どもをいきなり育て始めなければいけないようなものだね」
タランティーノ「僕は小説を読む時はいつも、映画用の脚本に変えようとしてしまうんだ。そんなことはやめて普通に読みたいんだけど、できない。読む物すべてを脚色してしまうんだけど、君もそう?」
ヘルゲランド「ああ。まったく同じだよ。書店に行って700ページの小説を見つけたとしよう。僕が最初に思うのは、“うーん。この分厚い本をどうやって映画用に縮めればいいんだ?”ってことなんだ」
●脚本・脚色賞は、残念賞
タランティーノ「アカデミーの最優秀作品賞を取るのは、現状維持のハリウッド映画(status quo Hollywood movie)だけさ。かっこいい映画はいつも脚本賞か脚色賞を取るんだ。脚本・脚色賞は、かっこいいことに対する残念賞なんだよ」
ヘルゲランド「それは真実だね」
タランティーノ「僕が『パルプ・フィクション』で脚本賞を取った時は『フォレスト・ガンプ』が最優秀作品だった。君が『L.A. コンフィデンシャル』で脚色賞を取った時はどうだったの?』
ヘルゲランド「『タイタニック』が取ったよ」
タランティーノ「『タイタニック』か。脚本賞にノミネートさえされていない作品だ」
ヘルゲランド「これはつまり、脚本・脚色賞がいかにかっこいい賞かってことだね」
タランティーノ「たまたまなんだけど、あいにく僕は『タイタニック』を愛しているんだ。あれはいい映画だね」
自分の直前の発言に反する内容をすぐ口走ってしまうタランティーノは、やはり面白いですね。私は、ヘルゲランドが書店に行って700ページの小説を見つけるくだりで、「うん分かる。分かる」と思いました。規模はまったく違いますが、私もニューヨーク・タイムズの長い長い英文記事を数分の1に縮めて翻訳しなければいけない時があり、そういう時は同じように「う-ん」と悩むからです。でも、うまく仕上げることができた時の充実感は格別で、ヘルゲランドが言うように、確かにオリジナル記事を書くのとは違う達成感があるのです。(細田雅大)
どんどん長くなる映画のクレジット
04年01月16日
昔の映画をビデオやDVDで観ていて驚くのは、クレジットの短さです。クレジット(credits)というのは、映画が終わった時などに、スクリーンの下から上へスーッと流れていく、監督や俳優、そのほかのスタッフたちの名前の一覧のことです。
1月11日のニューヨーク・タイムズに、最近の映画のクレジットの長さを揶揄(やゆ)する記事が掲載されていました(「Who Was That Food Stylist? Film Credits Roll On」)。
「最近のクレジットは長過ぎる。公開中の『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』では9分33秒も続く。なぜこんなに長いのか?」と問いかける内容です。
面白いのは、1936年の「モダン・タイムス」、42年の「カサブランカ」など昔の名作と、「王の帰還」のクレジットの長さが、図として比較されているところです。
定規で長さを測ってみました。「王の帰還」のクレジットは45.7センチにも及びます(ニューヨーク・タイムズの紙面の上から下まで届いてしまいそうです)。一方、「モダン・タイムス」は0.8センチ、「カサブランカ」は1センチ、1977年の「スターウォーズ」でも4.9センチです。
クレジットが長くなってきた理由として、この記事では、人手のかかるコンピュータ・アニメーション使用の増加、組合の方針、著作権法による強制、そして昔ながらの情実(えこひいき)の横行を挙げています。また、十分な予算のないインディペンデント系の作品の場合、名前を記すことでギャラ代わりにするということもあるようです。
「しかし」と記事は続きます。「『マトリックス』のように、あんま師(the set masseuse)の名前がクレジットされる必要が本当にあるのだろうか?」「『コールド・マウンテン』のクレジットには、ルーマニア軍連絡補佐官やフード・スタイリストの名前がある。ちょっと行き過ぎではないのか?」「『王の帰還』には、third assistant directorという職種のほか、second second assistant directorという職種もある。両者はどう違うのか?」
私は、自分が編集している雑誌のことを考えてみました。雑誌や書籍には奥付(おくづけ)というものがあります。編集長や編集者、デザイナーの名前などが列挙されているページのことです。
もし、映画界と同じ現象が、雑誌の世界にも起きたら……。私たちの雑誌の奥付には、以下のような肩書きがずらずら並ぶことになるかもしれません。(細田雅大)
編集長
編集者
ライター
デザイナー
イラストレーター
カメラマン
営業
流通
経理
印刷
紙屋
製本
インク業者
コピーマシン業者
ファックスマシン業者
コンピュータ業者
DTPソフト業者
オフィスビルの受付
オフィスビルの警備員
オフィスビルの掃除係
オフィスの空調管理人
社員が愛好する出前弁当屋
社員が愛好する出前ビデオ屋
社員が愛好する最寄りのスターバックス
社員が愛好する最寄りの和風総菜屋
近くのデリの看板娘
日本にいて励ましてくれる東京の元同僚
日本にいて励ましてくれる故郷の友人
日本にいて励ましてくれる中野区の彼女
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メル・ギブソンのパッション
04年02月13日
俳優のメル・ギブソンが私費を投じて製作・監督した映画「The Passion of The Christ」が、2月25日より公開されます。イエス・キリストが処刑されるまでの12時間を“リアル”に描いているという評判の作品です。
私は、passionの意味を「情熱」だと覚えていたので、この作品のタイトルは日本語では「キリストの情熱」になるのだと思い込んでいました。しかし、そうではありませんでした。先頭を大文字にしたPassionは、神学的には「キリストの受難」という意味なのです。より具体的に言えば、「最後の晩餐(ばんさん)以降のキリストの受難」となるようです。
「キリスト教関係者は、この映画の公開を、千載一遇の伝道のチャンスと捉えている」という内容の記事がニューヨーク・タイムズにありました(2月5日付け「Some Christians See 'Passion' as Evangelism Tool」)。試写を観たキリスト教関係者が、映画チケットをまとめ買いして、信者でない友人や同僚("unsaved" friends and co-workers)に配るよう、信者に勧めているそうです。
一方でこの映画は、一部のユダヤ教関係者から批判されています。「キリストの処刑に対する責任をユダヤ人に押し付けており、反ユダヤ主義を招く」というのです。11日(水)には、マンハッタンのヒルトンホテルで「Who really killed Jesus?」という討論会が開かれました。ラビ(ユダヤ教の指導者)とユダヤ教学者の討論でした。
どんな様子なのか興味があったので出かけてきましたが、馴染みのない神学用語が頻出し、討論の内容については実はよく理解できませんでした。Passionが「キリストの受難」という意味だということも先日知ったばかりなのですから、当然といえば当然です。
しかし私は、さまざまな宗教が混在するアメリカに住んでいる者として、そして、宗教の影響力が以前よりも強くなってきたと思える現在に生きる者として、宗教と人間のかかわりに関心を持っています。その関心は強くなる一方です。まずは基本的な神学用語を覚えて、「The Passion of The Christ」の公開に備えたいと思います。(細田雅大)
今年も大物が対決!
04年02月20日
先週末、タイムズ・スクエアの映画館に「The Barbarian Invasions」を観にいきました。カナダのドゥニ・アルカン監督の作品です。このコラムを書くため調べてみたところ、「みなさん、さようなら」というなかなか洒落た邦題が付いていました。
アカデミー外国語映画賞にノミネートされているだけあり、ユーモアと哀しみが絶妙なバランスを保っている上品な佳作でした。「いい映画を観たな」と思って満足し、劇場を出ようとした時です。不吉な顔が大写しになったポスターが、私を呼び止めるのでした。
顔と言っても、人間の顔ではないのです。人間どころか、地球上の生物ですらありません。リドリー・スコット監督の傑作「エイリアン」(1979年)に出てくる怪物の顔なのです。
私は動揺しました。スイスの芸術家H・R・ギーガーが造形した冷酷無比なエイリアンは、強い酸性の体液を流し、ヒトの体内に勝手に卵を産みつける鋼(はがね)のような生き物です。公開当時、私は本当に怖かったのです。大人になったはずなのに、今でもビクッとするのです。
商業的にも成功した「エイリアン」は、その後シリーズ化され、第4作まで作られました。ポスターを見た私は「第5作目か!」と思い、おののきました。
その考えは、半分当たっていました。半分というのは、8月に公開予定のその映画に出てくる怪物は、エイリアンだけではないからです。映画のタイトルは「Alien vs. Predator」。
エイリアン対プレデター……。つまり、87年の映画「プレデター」でカリフォルニア州知事を苦しめたあの透明な怪物が、エイリアンと闘うわけです。私は、昨夏公開され、意外なヒットとなった作品を思い出しました。「フレディ vs. ジェイソン」です。
去年がフレディ対ジェイソン。今年がエイリアン対プレデター……。来年は、やはり「座頭市 vs. 水戸黄門」か? ハリウッドは日本ブームだし、その可能性がないとはいえない。いや、その前に、今年勝つのは、やはりエイリアンだろうか?
などと考え始めてしまったため、「The Barbarian Invasions」の美しい余韻は木っ端みじんとなりました。(細田雅大)
パッション鑑賞
04年03月05日
メル・ギブソン監督の「The Passion of The Christ(邦題:パッション)」をたった今、観てきました。先月25日の公開以来、各地で騒ぎを起こしつつ(カンザス州では女性が心臓まひを起こし死亡しました)、興行成績のトップを突っ走る話題の映画です。
私は映画の批評を読むのが好きなので、「The Passion of The Christ」も、事前にいくつか批評を読みました。多くの批評家が口を揃えて「描写がとにかく残酷」と言っているのが印象的でした。例えば、次のような具合です。
「メル・ギブソンはまるで、神の愛を、血の量によって計ろうとしているようだ」(ロサンゼルス・デイリー・ニュースのグレン・フィップ氏)
「キリスト最後の数時間における残虐行為に、情け容赦なく焦点が当てられている。そのためこの作品は、愛によって作られたのではなく、怒りによって作られたように思えてしまう。観る者の魂を高揚させるのではなく、攻撃することに成功している」(ニューヨーク・タイムズのA.O.スコット氏)
「R指定ではなく、NC-17(17歳以下は入場禁止)指定の方が適切だと思われる残酷描写のおかげで、キリストが苦しんだことだけはしっかり伝わってくる」(スティーブ・ローデス氏)
また、「あまりにも残酷なので、精神性のようなものはあまり感じられない」「リアルにしようとし過ぎて、宗教性が失われている」という指摘も少なくなかったと思います。
こうした批評ばかり読んでいたので、ほとんど私はスプラッター・ムービーを観るような心境でした。「いつ血が出るのか?」「いつ肉が裂けるのか?」と期待しつつも、「痛いのは嫌だ嫌だ」と思って、なるべくスクリーンから身を遠ざけようとしてしまう、あの心境です。
良いことなのか悪いことなのか、私は、宗教についてほとんど無知かつ無頓着な人間です。しかし、例えば外国を旅行し、その土地の教会やお寺などへ行けば、「ここでは静かにしないといけないな」という気持ちになります。
キリスト最後の12時間を約2時間に圧縮した「The Passion of The Christ」は、たしかに、とても描写の残酷な映画でした。しかし、スプラッター・ムービーのようだったかというと、決してそうではありませんでした。映画を観ている間、「ここでは静かにしないといけないな」というあの気持ちを、ほんの少しだけとはいえ、思い出したのです。(細田雅大)
ゾンビ銃撃
04年03月26日
水曜日の夜、テレビでニュースを見ていると、「タイムズ・スクエアそばの映画館AMC Empire 25 で銃撃があった」との速報が飛び込んできました。「少なくとも1人が撃たれた模様です。映画館からは避難命令が出されました」と、警官が取り囲む映画館の前から、記者が深刻そうに伝えています。
私は「またギャング同士の撃ち合いか」と思い、うんざりしました。たしか昨年、この映画館の向いにあるクラブ(ニューヨーク・ヤンキースのショップの隣)でギャング同士の銃撃戦があったのです。
しかし、翌日の新聞を読んで、今回の銃撃は、ギャングの抗争とは直接関係のないものだと分かりました。映画「Dawn of the Dead」を観ていたアンソニー・クラークさん(21歳)が、ピストルで自分の脚を撃ってしまったのです。「A man accidentally shot himself」とありますから、意図的な銃撃ではなく、何らかの事故のようです。
「Dawn of the Dead」を既に観ていた私は、「しかし、単なる事故ではないかもしれない」と思いました。ちなみにこの映画、日本では「ゾンビ」というタイトルで公開された1978年の同名作品のリメイクです。ゾンビがたくさん出てきます(話はそれますが、78年にはのろのろ歩いていたゾンビが、今回は全力疾走で襲ってきます)。
ゾンビの息の根を止めるには(話はそれますが、いったん死んでから動き出すのがゾンビなので、本当は既に息の根は止まっています)、頭部を破壊するしかありません。周囲の人間がどんどんゾンビと化す中、生き残った人間たちは、ゾンビの頭をバンバンバンバン撃ち続けます。
私は想像しました。アンソニー・クラークさんは、実はすごい恐がりで(話はそれますが、だからこそ銃を携帯しているのでしょうか?)、画面のゾンビに震え上がり、そのうち、ついポケットのピストルを握りしめるようになったのです。そして、静かなシーンなのでほっと一息ついていたところ、いきなりゾンビが現れたものだから、反射的に引き金を引いてしまったのではないでしょうか。(細田雅大)
自由が燃え出す温度
04年06月23日
マイケル・ムーアの映画「FAHRENHEIT 9/11」(邦題:華氏911)を観てきました。ブッシュ政権を厳しく批判するドキュメンタリーで、カンヌ映画祭の最高賞パルムドールを取った作品です。今週の金曜日から公開されますが、「Special Engagements」と銘打って、一部の劇場では今日から上映が始まったのです。
「華氏911」というタイトルは、レイ・ブラッドベリの小説「華氏451」を模したものです。学生時代に読んだきりなのでうろ覚えですが、華氏451度は、紙が燃え出す温度だそうです。本の所有が禁じられ、どんどん本が燃やされていく超管理社会を描いたSFでした。(ブラッドベリは「マイケル・ムーアが私の本のタイトルを盗んだ」と言って騒いでいるそうですが、どうも腑に落ちません。ムーアは「華氏451」に敬意を表していると思うのですが……)
私が観に行ったのは、マンハッタンのアッパーウエストサイドにある映画館でした。座席数は230前後。平日の午前11時から始まる初回の上映です。立ち見が出るほどの盛況でした。劇場前で共和党系のブッシュ支持派が何かアピールをしているのではないかと思い、カメラを持参しましたが、上映反対派の姿は見当たりませんでした。チケット売り場で確認すると、午後6時5分から10時5分までの6回の上映が「Sold Out」になっています。
ブッシュ支持派から「映画の内容に事実誤認がある」と言われないように、マイケル・ムーアは、精鋭の事実確認チームを使って、しっかりと情報の裏付けを取ったそうです。公開日が決まってからも、ギリギリまで編集を続けていたようです。私は、熱意にあふれた良い作品だと思いました。皆さんもぜひ御覧になってください。(細田雅大)
売れないTシャツ
04年07月15日
ドキュメンタリー映画としては驚異的な観客動員数を維持するマイケル・ムーアの「FAHRENHEIT 9/11」(華氏911)。公開初日に、マンハッタンのアッパーウエストサイドで鑑賞した際の様子は、すでに本欄でお伝えしました。平日の午前中でしたが、立ち見が出るほどの盛況でした。そして最近では、人気を当て込んだ便乗商法も現れています。
先週末、別の用事があってアッパーウエストサイドの映画館の前を通りました。黒人の親子らしき2人組が、チケット売り場の前でテーブルを広げ、Tシャツを売っていました。「華氏911」を観に来るのは反ブッシュの人たち。ブッシュを馬鹿にしたTシャツがどんどん売れるはず。そう目論んだ2人組が売ろうとするTシャツは、サイズに応じて10ドルから12ドル。ブッシュ大統領の顔写真とともに、次の文字がプリントされています。
NO MORE BU _ _ SH _ _
私は、あまりピンと来ませんでした。ノー・モア・ブッシュ(ブッシュは、もうこりごり)。それは分かります。しかし「BU」と「SH」の後ろの下線2つはいったい何? 「NO MORE BULL SHIT」ってこと? つまり「たわごとは、もうこりごり」ってこと? ? それで? 「BULL SHIT」を「BU _ _ SH _ _」にして何が面白いの? ?
今このコラムを書きながら考え直しても、やはり何も面白くありません。私はしばらく2人組を観察しました。誰もTシャツを買おうとしません。話しかける人もいません。アッパーウエストサイドの映画館に「華氏911」を観に来るような白人層が、センスの悪いTシャツを買うわけがないのです。「華氏911」で盛り上がっているからとはいえ、そうそう勢いに乗って他の人とお揃いのTシャツを身に着けるはずがありません。「華氏911」を喜んで観に来るようなニューヨーカーは、むしろ、そうした共同性を嫌うのではないでしょうか。
と、自分なりに分析し終えたところで、2人組が可哀想になってきました。実は私、「華氏911」の上映後に盛大な拍手をするような人々よりも、この2人組の方に強く共感してしまうのです。
ほんと。せっかくの商売のチャンスだったのに。今回は失敗。でも次回こそは何とかしよう! 無視して通り過ぎていったあの人たちに、次回こそ何か変なものを売りつけよう! どうか頑張ってくれ! と応援したくなるのです。(細田雅大)
放置映画館
06年01月22日
街を歩いていると、放置された映画館をよく見かけます。ニューヨークに来た時に最初に住んでいたクイーンズにも、放置された映画館はありました。今住んでいるブルックリンのアパートのそばにもあります。ニューヨーク市には、放置された映画館が、けっこう多いのかも知れません。
営業を中止し、シャッターの閉められた映画館が、そのままの状態で残されているわけです。レストランやデリ(グローサリー・ストア)、あるいはヘアサロンなどの場合、あまりこんなことにはならないと思います。ある店がつぶれたら、外装も内装もきれいに片付けられて、すぐに別の借り手(テナント)を探し、商売が始まることが多いのではないでしょうか。
しかし、映画館は、そのまま残されています。まず、一般の店舗とは、広さが違います。外観も内装も特殊です。映画館業を止めて別の商売を始めたくても、改装費用がかかり過ぎて、割に合わないのでしょう。だから、放置されてしまうのだと思います。
今日、そういう放置映画館の写真を撮ってきました。まずは、ブルックリンのフラットブッシュ地区にある映画館です。

放置された映画館
何も表示されていない看板

この映画館、建物の正面が焼けこげています。火災が起きたようです。火災が原因でつぶれたのか、あるいは、つぶれた後で誰かが放火したのか分かりませんが、いずれにしても、かなりな放置っぷりです。私がこの地区に越してきたのが2年前。少なくとも2年間、ずっとこのままなのです。
次に、ブルックリンのパーク・スロープ地区にある映画館「ザ・フラットブッシュ・パビリオン」を見てみましょう。ここでは一度だけ、実際に映画を観たことがあります。2004年の春に公開されたホラー映画、「Dawn of the Dead」(1978年作品のリメイク)でした。

ザ・フラットブッシュ・パビリオン
「Dawn of the Dead」の上映期間が終わると、「Van Helsing」というアクション映画が始まりました。その後は、いつ映画館の前を通っても、看板にはずっと「Van Helsing」がかかっています。何カ月も何カ月も「Van Helsing」が続きます。ヒュー・ジャックマン主演のこの映画、批評家受けも興行収益も悪く、こんなに長く上映されるはずがありません。「これはおかしい」と思い、よーく観察したところ、映画館は既につぶれていたことを発見したわけです。
つぶれてしまったわけですが、面白いことに、「ザ・フラットブッシュ・パビリオン」は今でも観客を集めています。ここの場合、上映作品を表示するアルファベットのパネルも放置されていました。「VAN HELSING」ですとか、そのほかの作品タイトルが、雨にも負けず、風にも負けず、ずっと張り出されていたわけです。これに目を付けた誰かが、夜な夜な出没しては、アルファベットを組み替えるようになったのです。ニューヨーク・タイムズでも報道されましたので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
下の写真は、昨年の暮れ、12月30日に撮影したものです。向かって右側、そして左側の看板です。日光が反射して少し見にくいですが、「ELVIS LIVES」(エルヴィスは生きている)という作品が上映されています。

左側の看板。「エルヴィスは生きている」
右側。「彼は、満面の笑みを浮かべたファンであるアンから逃げ、家に走り帰った」?

そして、下の写真は、今日、撮ってきたばかりのものです。今度はフランス映画のようです。でも、すでに終了したようです(FIN)。

「もはや不正行為が容認されることはない」?
終了(FIN)。フランス映画だったようです

数えてみたところ、アルファベットのパネルは、計38個。限られた文字数で、トンチのきいた文章を作らないといけないのですから、大変だと思います。皆さんも、お近くにお越しの際は、ご覧になられてはいかがでしょう。場所は、プロスペクト・パークの北、Flatbush Avenueと7th Avenueの交差点そばです。(細田雅大)
映画宣伝の新手法?
06年03月30日
4月21日から「Silent Hill」という映画が公開されます。ゲームをしない私はよく知らないのですが、もともと人気ゲームだったのを映画にしたホラー作品だそうです。映画館で一度、予告編を見たことがあります。おどろおどろしい雰囲気が興味をそそりました。
数日前から、この作品のポスターが街角に張り出されています。私は最初、何とも思っていませんでした。しかし昨夜、ふとひらめいて、「もしやこれは、映画宣伝の新戦略ではないか?」と思ったのです。まずは、公式サイトからダウンロードしたポスターを、じっと見つめてみてください。

こういうポスターをよく見かけるようになりました
公式サイトからダウンロードしたポスターです。しばらく見つめてみてください

どうです? 女の子の口を描きたくなってきませんか?
私は描きたくなりました。そして気づいたのです。もしかするとこれは、通行人の落書きをわざと誘っているのではないかと。
通常、ポスターを張り出す側は、落書きされるのを嫌がります。しかし、このポスターは、いかにも落書きしてくださいと言わんばかり。この映画の関係者は、わざと落書きさせようとしているのではないかと私には思えました。
それはなぜか? 仮説は以下の通りです。
<製作者ほか関係者が、本作の試写を観たところ、超駄作であることが判明した(あくまで私の想像です。もし傑作でしたら、ご免なさい)。実際に映画が公開され、口コミで評価が広まれば、もう観客はやって来ない。そのことを十分承知している関係者は、公開される前のポスター張り出しの段階で、注目を集めねばならないと判断した>
<そこで思いついたのが、このポスター。このポスターなら、今後間違いなく、各地で落書きされるだろう。中には、トンチの効いた面白い落書きもあるはず。面白いのは落書きであって、映画ではないわけだが、ポスターを見る通行人は、無意識のうちに、「落書きの面白さ」イコール「映画の面白さ」だと思うのではないか。そして、映画が公開された直後だけは、観客が映画館に殺到するのではないか>
関係者はそのように考えて、こういうポスターを作ったのではないかと想像したわけです。そして、今日、マンハッタンのダウンタウンを歩いていると、さっそく落書きされたポスターを発見しました。残念ながらカメラが無かったので撮影できませんでしたが、これからもどんどん落書きされると思います。いつの日か、傑作を紹介できるかもしれません。
同僚のデザイナーに「これは映画宣伝の新手法ではないか」と話したところ、さっそく落書きしたポスターを作ってきました。参考までにご紹介します。妙に引きつけられますので、やはり映画も観に行きたいと思います。(細田雅大)

同僚に落書きされてしまいました
ブライアント・パークのロッキー
06年08月21日
マンハッタンはミッドタウンの憩いの場、ブライアント・パークでは毎年、夏の無料野外映画祭「HBO Bryant Park Summer Film Festival」が開催されます。アメリカの古典映画が、毎週月曜日、巨大スクリーンで上映されるのです。今年も6月19日の「鳥」(1963年/アルフレッド・ヒッチコック監督)から、最終日の今日、8月21日の「ロッキー」(1976年/ジョン・G・アヴィルドセン監督)まで、計10作が上映されました。と言っても、私が観に行ったのは今日の「ロッキー」だけですから、もしかしたら雨が降って中止になった回もあったのかもしれません。
実はたった今、「ロッキー」を観終わり、公園からわずか2ブロックほどのところにあるオフィスに戻ってきたところです。いや~やっぱり「ロッキー」は素晴らしい。シルベスター・スタローンの最初にして最後の真の名作かもしれません。念のために言っておくと、最初の「ロッキー」は、脚本もスタローンが担当しています。さらに念のために言っておくと、私が素晴らしいと思うのは最初の「ロッキー」だけです。ロッキー・シリーズではありません。
本編が上映される前に、現在製作中だという「ロッキー6」の予告編が流されました。あくまでも予告編なので実際にどうなるのかは分かりませんが、どうやらロッキー・バルボア選手、「ロッキー6」で現役に復帰する気配です……。なんか必死に練習していましたから……。最初の「ロッキー」が公開されたのが1976年。この時、“イタリアの種馬”ことロッキー・バルボアは30歳だったはずです。もし現実と同じようにロッキーも年を取っているとしたら、2006年は60歳、つまり還暦のはず……。それなのに現役復帰……。さすがにちょっと無理では……。という気がしましたが、とりあえず最初の「ロッキー」が素晴らし過ぎるので、私は許します。
予告編はともかく、私以外のお客さんも、「ロッキー」をかなり楽しんでいました。後に奥さんになるエイドリアン(タリア・シャイア)がロッキーに口説かれ、デートに出かけることを決意するシーンでは大拍手、ロッキーが世界チャンピオンのアポロ・クリードとの一戦を承諾するシーンでも大拍手、ロッキーが本格的な練習を開始し、フィラデルフィア美術館の階段をダッシュするシーンでも大拍手、という具合に大盛り上がりでした。しかし、ラストの「エイドリア~ン」絶叫シーンに匹敵する名シーンだと私が考えているあるシーンでは、拍手がチラホラと起きただけでした……(それがどのシーンかは秘密です。自分で探してみてくださいね)。

超満員になったブライアント・パーク
ついに最終ラウンドへ突入するロッキー

上映中、私のすぐ近くで騒動が起こりました。椅子に座って上映開始を今か今かと待っていた男性がいたのですが、上映が始まってしばらくすると、別の男性が不用意に前に立ちふさがり、彼の視界を遮ってしまったのです。私のすぐ横で2人は顔を突き合わせ、「どけよ」「どかない」「どけよ」「文句があるなら警察呼べよ」などと言い合い始めました。
周囲のお客さんは興ざめです。「これはまずいな」と思った私は、言い争いに介入することにしました。ふだんならそんなことは絶対にしないのですが、今日は違いました。なぜなら、ロッキーに感情移入し、彼になり切っていたからです。
というのは嘘で、本当は、私のすぐ近くに、アラブ系フランス人とおぼしき見目麗しい女性が座っていたからです。実は上映開始前に既に、この女性のお友達が座る椅子の準備を勝手に手伝ったりして、お近づきになったりなんかしていた私。「この醜い言い争いに介入して丸く収めれば、男の中の男だと思ってもらえるのでは……」という下心がございました。
「どけよ」「どかない」「まあまあお二人さん、どうか落ち着いて」「どけよ」「文句があるなら警察呼べよ」「まあまあ、落ち着いて」「どけよ」「どかない」「まあ落ち着きなさいって」「どけよ」「どかない」「まあまあまあ」といったやり取りをしたわけですが、私の介入で頭が冷えたのか、警察が来たりなどの大事(おおごと)になる前に、言い争いは終わりました。
ひと仕事終えた気になった私は、「どうだいお嬢さん。見てくれたかい俺の男気を」と思いながら、アラブ系フランス人の女性の方を見てみましたが、なんと! 彼女は帰り支度をしており、すぐにお友達と一緒に帰っていきました。
「あの! ロッキーはこれから面白くなるんですけど!」と声をかけようかと思いましたが、「それはちょっと不自然かな?」と思っている間にその機も逸してしまい、アラブ系フランス人は人混みの彼方へ。 ラストシーンから1時間以上前に起きた出来事でしたが、「エイドリア~ン」と愛する女性の名を叫んだロッキーのごとく、私も彼女の名前を叫びそうになりました。ま、彼女の名前、知りませんけどね。でも、何はともあれ「ロッキー」最高!(細田雅大)
ルーマニア映画「4ヶ月、3週と2日」について
07年12月20日
2006年の暮れ、俳優の渡辺謙をインタビューするため、マンハッタンの一流ホテル、ウォルドルフ=アストリアの報道陣控え室にいた私は、前日に試写を観たばかりのクリント・イーストウッド監督作品「硫黄島からの手紙」について、「とてもリアルだった」と英語で語ったのだった。
私が話しかけていたのは、50歳代くらいの白人男性だった。たしか、テレビ関係の裏方仕事をしている人だったと思う。報道陣のために用意された食べ物や飲み物をとりながら、私が「とてもリアルだった」と言うと、彼は少し笑いながら言った。
「お前は戦争に行ったことがあるのか? 戦争に行ったことがないのに、どうしてリアルだと分かるんだ?」
少しムッとした私は、「戦争に行ったことはないが、この映画はリアルだと感じられた」と言い直す羽目になった。
昨夜、ルーマニア映画「4ヶ月、3週と2日」を観て試写会場を出た私は、たいへんに陳腐な表現であることは承知していたものの、またもや「とてもリアルだった」と語ってしまった。幸運なことに周囲には、チャウシェスク独裁政権下の社会主義国家で暮らしたことがある人間はいなかったので、「お前はルーマニアに行ったことがあるのか?」と聞かれることはなかったが。
リアリティーは、必ずしも、本当に起こった出来事からだけ発生するのではない。「Based on a true story」と銘打たれた映画がけっこうあるが、そうした映画のすべてにリアリティーが感じられるわけではない。リアリティーというのは、その出来事が実際にあったかどうかとか、その作品が史実に完璧に従っているかどうかとは、必ずしも関係しないと思う。
だからと言って、「4ヶ月、3週と2日」が、実際に起きた出来事や史実とは異なる、完全に架空の話かというと、恐らくそうではない。1968年にルーマニアのヤシに生まれたクリスチャン・ムンギウ監督は、1989年に独裁政権が倒されるまでは禁止されていた妊娠中絶に関する映画を作るため、かなり多くの人をインタビューしたようだ。
「この映画の話を聞いてやって来た人たちは、みなそれぞれ、自分なりのエピソードを持っていたんだ。突然、誰もが何か言いたいことを抱えているって感じになったので驚いたよ。たくさんの人と話したけれど、僕が聞いたいちばん恐ろしいエピソードは使わなかった。僕は、自分がいちばんよく知っているエピソードを追求したんだ」
この映画のリアリティーは、中絶しようとする女子大生とそのルームメイト、彼女たち2人の演技から発生しているのかもしれない。2人ともルーマニアの女優で、そのうちの1人、妊娠した親友を助けようと駆け回る主人公を演じたアナマリア・マリンカは、コッポラ監督のカムバック作品「Youth Without Youth」にも出演しているようだ。
あるいは、もしかするとリアリティーは、登場人物が何をしているのか全く分からなくなるほどの、暗過ぎる画面から発生しているのかもしれない。
暗過ぎる画面といえば、私の場合まっさきに思いつくのはクリント・イーストウッド監督作品だ。しかし、本作に現れるシーンの暗さは、それ以上かもしれない。アナマリア・マリンカ演じる主人公が路上を歩き回っていることは分かる。しかし彼女が、いったいどんな表情で何をしようとしているのかは、全くスクリーンに映らない。そのシーンはとても怖く、そして私はルーマニアの路上を歩いたことはないが、とてもリアルである。(細田雅大)
映画で学ぶDVと恋
07年12月27日
ボストンで活動する団体ATASKについて書いていた私は、最初、「家庭内暴力」という言葉を用いたのだった。ドメスティック・バイオレンス(Domestic Violence)を日本語にすれば、「家庭内暴力」になるのだろうと思ったからである。
しかし私は、「できれば家庭内暴力という言葉は使わないでください。ドメスティック・バイオレンス(DV)という言葉にしてもらえませんか」と頼まれることになった。DVの被害者を保護し、自立支援を行う団体ATASK(Asian Task Force Against Domestic Violence)の日本人、大山裕子さんと澤目梢さんに草稿を見せた時のことである。
「家庭内暴力」と聞くと、かつて、荒れる中学生たちが引き起こした「校内暴力」を連想し、肉体的な暴力だけを考えてしまう人が多いからだという。
「DV」という言葉を代わりに用いたその記事は、2007年10月3週号の「U.S. FrontLine」誌に掲載され、そこではDVについて、「身体的な暴力だけではなく、言葉や性による暴力、経済力などによって支配しようとする暴力」も含むと紹介した。
その記事の中で、大山さんと澤目さんが映画「Waitress」を推薦している。「身体的暴力のようには表面に現れない精神的暴力や経済的支配など、DVの複雑さを巧みに描いた作品」だという。日本でも既に今年、「ウェイトレス ~おいしい人生のつくりかた」という邦題で公開されている作品だ。
この映画のDVDが発売されたので、私はさっそく借りてみた。ポスターやDVDのパッケージから分かる通り、そして邦題から想像できる通り、この映画は明るいラブコメだ。そしてこの映画、たしかにDVの複雑さを巧みに描いている。とても巧みなので、「これもDVなんですよ」と誰かに教えてもらわないと、気づかないかもしれないほどだ。この作品を「DV映画」として認識させてくれた大山さんと澤目さんにお礼を言いたい。
もちろん、この映画が素晴らしいのは、DVの複雑さを巧みに描いているからだけではない。DVはむしろ、ストーリーの背景に過ぎないだろう。この映画を見て感じられるのは、何よりも、恋することの素晴らしさである。
ダイナーで日々パイを焼く主人公のジェンナ(演じるのはケリー・ラッセル)だけでなく、彼女の同僚のベッキー、そしてドーンもまた恋をする(ドーンを演じるのは、監督・脚本も務めた故エイドリアン・シェリー)。不倫だったり、純粋だったり、職場での軽いペッティングだったりと、いろいろな形の恋である。どの恋を見ても「恋することって素晴らしい」と思ってスキップしたくなってしまう。そういう映画は、案外少ないのではないだろうか。本作を見れば、たいへん幸せな気分になれること請け合いだ。皆さんにオススメする次第です。
なお、監督のエイドリアン・シェリーは、本作完成後、ニューヨークのアパートで騒音の苦情を言ったら殺されてしまった。なんという損失だろう。(細田雅大)

小児性愛者のシーンをなぜかリピート
08年01月31日
DVDを宅配してくれるネットフリックスは便利なサービスであり、私の場合どう便利かというと、スケジュールを管理してくれる秘書になってくれるからだ。
ある時、「ケイト・ウィンスレットの映画をまとめて観ておくべきだな」と思ったとしよう。ネットフリックスのサイトで「Kate Winslet」と入力し、出てきた映画を指定していけばいい。彼女の映画が「Your Queue」に溜まっていく。Queueというのは「行列」という意味だ。行列の先頭にある映画から順番に宅配してもらえる。順番の入れ替えも可能。
これのどこが秘書的であるかというと、私自身はもうとっくの前に忘れてしまったのに、ネットフリックスは忘れておらず、ある日を境にケイト・ウィンスレット映画を自動的に送り続けてくれるからである。気配り上手な秘書が多忙な重役にスケジュールを思い出させるのと同じだ。もっとも実際の私には秘書がおらず、雑誌編集という仕事においては私自身が秘書的な役割を果たしているので、想像に過ぎないのだけれど。
「Finding Neverland」そして「The Holiday」と続けて観て初めて、「そうだ。ケイト・ウィンスレットの映画をまとめて観ておくことにしたのだ」と思い出す。そもそもなぜ彼女の映画を観ることにしたのかは思い出せないが(笑)、そんなことは問題にならない。なぜならば先日、「Little Children」を観たからである。
2006年のこの映画は、もともとは俳優だったトッド・フィールドという監督さんの作品だ。2001年の作品「In the Bedroom」が評判になった監督で、この作品を観た私は「とても丁寧にゆっくりと人間関係を描き出そうとしているな」と思った。「Little Children」でも、とても丁寧に語ろうとしている。主な登場人物は以下の通り。
(1)幼い娘も夫も本当には愛せず、郊外の若い母親グループとも打ち解けられない母親(ケイト・ウィンスレット)
(2)通販で買ったパンティーをかぶりながらマスターベーションしているところを妻に目撃されるその夫
(3)司法試験に2度落ち、3度目に賭けてはいるものの、勉強しているふりだけで本当は何がしたいのか分からず、妻に支えてもらいながら子育てをしている若い父親(パトリック・ウィルソン)
(4)社会的なドキュメンタリー映画を撮りながら家計を支える一方で、夫の様子がおかしいことに気づいていくその妻(ジェニファー・コネリー)
(5)男の子に性的ないたずらをしたため2年間刑務所に入り、出所してきたばかりの48歳の中年男(ジャッキー・アール・ヘイリー)
(6)小児性愛者である息子に年齢相応の恋人が見つかれば「悪い衝動」も消えると思い、息子の恋人探しをするその老いた母親(フィリス・サマーヴィル)
(7)無実の少年を誤って射殺してしまった元警官で、事件のトラウマから逃れられない一方、罪を償うためか、小児性愛者の出所を告知するチラシを配り、激しく糾弾する無職の男(ノア・エメリッヒ)
こういう人物たちが、それぞれの関係を通して変化していく様子を(あるいは変化していかない様子を)描いていく。映画の冒頭から中盤にかけて中心となるのは(1)と(3)の不倫話だ。ケイト・ウィンスレットの表情の演技は素晴らしく、そしてパトリック・ウィルソンは基本的にきれいな顔をしている人だから、見ごたえがある。
ずっとこのまま、二人の不倫話が続いていくのだろうと思わされ始めた頃、見知らぬ老婆が唐突に現れる。映画開始から約55分後のことだ。とても印象的である。この老婆が他の人物とどう関係しているか分からない登場の仕方になっているからだ。彼女こそ、(6)の老いた母親である。映画の後半、観る者の心により強く響くのは、(1)と(3)の不倫ではなく、(5)と(6)の愛情だ。
(5)の小児性愛者を演じたジャッキー・アール・ヘイリーという人は、もともとは子役だったらしい。1976年の「がんばれ!ベアーズ」では、バイク好きの不良少年を格好良く演じていたそうだ。30年後の本作では、巨大な頭のわりに胴体や手足は短く細く、頭ははげ上がったみっともない人間に変わっている。こちらの心が痛くなるくらいの不気味さである。絶対にこんな容貌にはなりたくないと思わされる男だ(なってしまいそうだが)。
しかし不思議なことに、DVDを巻き戻して(テープじゃないので巻き戻せないが)何回も観たくなるのは、ケイト・ウィンスレットが美しい胸を露にする濡れ場ではない。出所した小児性愛者が公共のプールへ行き、水中に沈んで子供たちの肢体を眺め、周囲の親に見つかり、警官によって強制退去させられるシーンだったりする。
あるいは、「お前は悪いことをしたかもしれないけど、だからと言ってお前自身が悪い人間というわけじゃないのよ」と言いながら、新聞の恋人募集欄に情報を掲載してもらうため、老いた母親が息子と一緒に文章を考えていく時の二人の顔だったりする。
「お前の笑顔は素敵だって書いてもらうわ」
「ほかには?」
「そうね、お前は何でも食べるわね。私が出した食事に文句を言ったことはないし」
「ほかには?」
「そうねえ……。運動をしなさい。運動してるので身体がしまっているって書いてもらうから」
不気味な中年男としわしわ老婆しか出てこないシーンなのに、なぜこんなに何回も観直してしまうのだろうか。そして公共プールのシーン。こうしたホロリとさせる会話さえもなく、小児性愛者が水中眼鏡を装着してプールに入り、水中を徘徊し、そして排除されるだけなのに、なぜあんなにも心に響くのだろうか。不思議だ。関心があれば、ぜひ皆さんも観てみてください。(細田雅大)
デヴィッド・リンチは小さなスクリーンが嫌い
08年11月24日
ニューヨーク・タイムズの日曜版には「The New York Times Magazine」という雑誌が付いてきます。その最新号(11月23日号)は映画特集でした。表紙は、女優ジェニファー・アニストンの顔のアップです。毎年1、2回、必ず映画を特集するこの雑誌。今回のテーマの一つは、小さな画面で映画を観ることの善し悪しでした。厳密に言えばこの号は、「映画特集号」ではなく、「スクリーン特集号(The Screens Issue)」と銘打たれているのです。
テレビ出身女優と言っていいアニストンに、テレビの世界から映画の巨大なスクリーンへの転出について語らせるとともに、テレビよりさらに小さな画面となるインターネットでの動画視聴について、「ユーチューブとかは、あんまり観ないの。(インターネットでは)メールをチェックするぐらいだわ」という発言を引き出しています。
また、ニューヨーク・タイムズの映画評論家A.O. スコット氏が、「新しいデジタル・メディアの登場で映画館は死ぬか?」という問題を論じており、「映画館は死ぬかもしれないが(いろいろなデジタル・メディアのおかげで)その死後の世界は素晴らしいものなのだ」と締めくくったりしています。
私にとってこの雑誌で一番面白いのは、だいたいいつも、デボラ・ソロモン氏による著名人インタビューです。読むのに時間のかかる長大な力作記事が多い中、このインタビュー記事はほんの1ページだけだからかもしれません。今回は、映画監督のデヴィッド・リンチが登場していました。評論家のA.O. スコットと異なり、リンチは「小さな画面はダメ」と断言しています。面白いので、その部分を訳してみましょう。
Q:スクリーン特集号なので、まずはこの質問から始めます。今、小さなスクリーンが人気ですけど、貴方はどう思いますか?
A:ひどい話だ。巨大なスクリーンに比べられるものなど何もないんだ。映画は巨大なスクリーンと巨大なサウンド用に作られているのであって、だからこそ観客は、別の世界へ行き、何かが体験できるんだよ。スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」がいい例だ。あれを小さいスクリーンで観るのは、痛ましい冗談みたいなものだ。
Q:「イレイザーヘッド」「ブルーベルベット」「マルホランド・ドライブ」といった貴方の作品を、ラップトップで観る人たちについてはどう思います?
A:ますます多くの人が、映画をコンピュータで観るようになっている。ひどいサウンドで、ひどい映像であるにも関わらずだ。そして彼らは、自分はその映画を観たと思い込む。でも実際には何も観ていないんだよ。
Q:小さなスクリーンだと、映像よりも話の筋(プロット)の方に気を取られてしまうからですか?
A:本当にとんでもない話だ。
ネットフリックスでDVDを借りては旧型のブラウン管iMacで映画を見続けている私は、「そういえば『マルホランド・ドライブ』は、映画館ではなく、このiMacの15インチスクリーンだけでしか観ていなかったな。つまりリンチが語っているのは、この俺のことではないか」と思い、衝動的にiMacのスクリーンをたたき壊し、ネットフリックスを解約しようと思ったのですが、そうはせず、代わりにこの文章を書くことにしたのでした(でもその後、ネットフリックスを解約しました)。
さて、実はここまでは前置きで、本題はこれからです。リンチのインタビューを読んだ私は、本当にしみじみと「そうだよなあ。映画は巨大なスクリーンのために作られているんだよなあ」と感じ入ったのです。なぜかと言うと、現在上映中のスウェーデン製ホラー映画「Let The Right One In」を既に2回、私は映画館に観に行っており、そして、この作品が巨大なスクリーンで上映されている限り、まだまだ数回は観に行きたいと思っているからです。
もし、この映画を初めて観たのがiMacの15インチであったのなら、おそらく、こうはならなかったのではないでしょうか。1回観て、「感動的な良い映画だったな」と思い、それで終わったはずです。というのはこの映画、すでにハリウッドが2010年の公開を予告し、英語でのリメイクに取り組んでいることからも分かる通り、プロット(話の筋)も素晴らしいのです。
しかし、私をして何回も映画館に足を運ばせてしまうのは、映画の冒頭、白い雪が真っ黒な巨大スクリーンの上で静かに踊るからだったり、映画の最後、主人公2人の12歳の顔のアップが鮮やかに巨大スクリーンに映し出されるからだったりするのだと思います。
この映画のラストについては(厳密に言うと、ラスト一歩手前のシーンについては)評価が分かれるかもしれません。「やり過ぎだ」「突拍子がなさ過ぎる」という意見が出そうな気がします。現に、初めて観に行った時には、なかばあきれたように大声で笑い出した観客がいました。それはそれで、あのシーンに対する真っ当な反応だとは思います。しかし私は、2人の顔がスクリーンに大きく交互にアップになったあの時、激しく胸を打たれたのでした。
ホラー映画でありながら静かで美しく、今何歳であろうと自分の初恋を思い出さずにはいられないほどメランコリックであり、背筋をゾッと冷たくさせながらも、私たちの心を温かい気持ちで満たしてくれる作品です。機会があれば、映画館の巨大スクリーンで観ることをおすすめいたします。(細田雅大)
イーストウッド「Gran Torino」は最後の「ダーティーハリー」か
08年12月12日
クリント・イーストウッド監督の仕事の速さは、ハリウッドでも指折りらしい。「硫黄島からの手紙」に主演し、イーストウッド監督と一緒に働いた渡辺謙にインタビューした時に確かめたのだけれど、ほとんど1テイク、たまに2テイク撮影するだけで、だいたい「OK」を出してしまうそうだ。大物監督にありがちなように製作予算を超過することもないらしい。だからなのか、監督として非常に多産である。例えば今年。てっきり最新作は、アンジェリーナ・ジョリー主演の「Changeling」かと思っていたら、実はそうではなく、知らない間にもう1本作っていた。それが今週末から公開される「Gran Torino」である。
この、こっそり撮影された(と言っていいのではないか。ほとんど誰もその存在を知らなかったのだから)映画の無料招待券が、今週、マンハッタンで配られた。朝、新聞を開くと、時々、そういう告知が載っている。「どこそこの店へこれこれの時間に行けば、公開間近のこの映画の無料招待券が手に入ります」という告知だ。「Gran Torino」の招待券は、52丁目の「Cafe Metro」という店で正午から配られた。

私は正午20分前にその店に到着し、行列などできてはいなかったが、チケット欲しさに駆けつけた数人の先頭の位置を確保し、浮き浮きしながら正午を待った。小柄な女性がチケットの束を持って立っている。即座に名刺を渡し、自己紹介をした。
「ワーナーブラザースの方ですね? 私は個人的にもイーストウッドの大ファンですが、全米最大の日本語雑誌のライターでもあります。今あなたが行っているこの映画のプロモーションについて書きたいので、コメントをいただきたいんですが」
この女性は「Gran Torino」を配給するワーナーブラザースの社員ではあったものの、報道陣に公式に語ったりする権限はないのか、あるいは私など無視することに決めたのか、「じゃあ広報担当の上司に伝えておくわね」と言うと携帯電話で誰かと話し、それっきりとなってしまった。
2005年の第77回アカデミー作品賞を受賞した「ミリオンダラー・ベイビー」は、もともと予定されていた公開日を繰り上げ、04年12月に急きょ公開された。例によってイーストウッド監督が、この重苦しい作品の撮影をあっという間に終えてしまったところ、試写を観た関係者がその出来映えに驚き、「これはアカデミー賞が狙える」と考えて急きょ公開を早めたそうだ。翌年のアカデミー賞の対象作品となるためには、前年の12月中に公開されている必要があったのだ。今回の「Gran Torino」も、おそらく似た経緯なのだろうと私は考えた。やはりイーストウッドは、あっという間に完成させてしまったのではないか。だから宣伝不足。とはいえ、やはり年内に公開して、あわよくばアカデミー賞を狙いたい。そして公開するからには、たくさん観客を呼びたい。でも宣伝不足。この宣伝不足をどう解決すりゃいいのか。そう考えた末に実施された無料招待券の配布なのだと私はにらんだ。そのあたりの経緯を関係者に確認したかったのだけれど、「広報担当の上司」からは、予想通り、何も連絡はなかった。もっとも大して残念ではない。なぜなら「Gran Torino」が観れたのだから。
例えば今、歌手のボブ・ディランが死んだとしよう。彼の50年近いキャリアを1枚だけのCDにまとめ、それを「The Very Best of Bob Dylan」として売り出せば、ファンから顰蹙(ひんしゅく)を買うはずである。彼の名曲の数々を、時間にしてわずか70分弱のCD1枚には収め切れるはずがないと、ファンなら考えるだろうからだ。
分かりにくい比喩(ひゆ)で恐縮だけれど、私の印象では映画「Gran Torino」は、ファンが誰も文句を言わない「The Very Best of Clint Eastwood」である。この1時間50分ほどの映画の中に、「ダーティー・ハリー」も「許されざる者」も「ミスティック・リバー」も「ミリオンダラー・ベイビー」もみんな入っている。しかも珍しく、笑いまで入っている。今年78歳になるイーストウッドが本作では主役を張り、中西部在住で人種差別主義の超保守的頑固ジジイを演じるのだけれど、そのジジイ演技は、なかば笑いを取るための演技であり、ストーリーがシリアスな局面を迎える終盤まで、場内の笑い声は絶えない。
しかし、その終盤、周囲の誰かが「Oh, Dirty Harry!!」と声を上げた。映画冒頭での毛嫌いはどこへやら、今では無二の親友となったアジア系移民の隣人が無惨に傷つけられてしまい、復讐心に燃えた頑固ジジイが、ついに立ち上がった時である。ダーティー・ハリーなら、そのまま復讐を実行に移すはずだ。実は私もそれを期待し、大いに盛り上がった(笑)。しかし、この頑固ジジイはそうしないのである。まるで「ダーティーハリー最新作」であるかのように進んできた「Gran Torino」は、最後の最後、「ダーティーハリー」から離れてしまう。その瞬間、場内は静まり返る。それは必ずしも、「ダーティーハリー」的カタルシスが得られなかったことへの失望からだけではない。終演後、場内を見回すと、3分の1くらいの客が泣いていたのだから。(細田雅大)
紫に染まったブルックリン夏の祭典
映画「パープルレイン」字幕上映
09年08月10日
ブルックリン中央に位置する公園、プロスペクトパーク。ここでは毎年6月から8月にかけて音楽とダンスの祭典「Celebrate Brooklyn!」が行われます。コンサートの多くは無料なので庶民には大変ありがたい屋外イベントです。無料とはいえ、かなりメジャーなアーティストも毎年登場します。例えば今年はデビッド・バーン(元トーキング・ヘッズ)、ナイジェリアのフェミ・クティ、そしてジャクソン・ブラウン。
8月6日(木)は、1984年の大ヒット映画「パープルレイン」が、巨大スクリーンで上映されました。当時、ミネアポリス出身の新進若手アーティストであったプリンスを、一躍世界規模のスーパースターに押し上げた作品です。その公開25周年を記念した上映でした。とはいえ、単なる懐古上映ではなかったのです。「なるほどこの手があったか!」と笑って膝を打ちたくなる工夫がこらしてあり、パープルの服装率が異常に高かった会場は、爆発的に盛り上がったのでした。
無料の上映とはいえ、会場に入る際に「Celebrate Brooklyn!」への寄付金として3ドルほど軽く要求されました。会場内では、ベライゾン(電話会社)がブースを設け、宣伝のため、無料で使える携帯電話をたくさん設置しています。外部からカンや瓶など持ち込めませんが、ビールが6ドルで売られていました。ではまず、パープルの服に身を包んだ観客の写真を5点ほど、どうぞご覧ください。





「パープルレイン」上映の前には、前座としてEscortというバンドが演奏しました。このバンドのボーカリストの衣装もパープルです。そしてこの、誰が呼んだか「ディスコ・オーケストラバンド」、すごく良かったのです。まさしく、オーケストラが(少しラテンの入った)ディスコを演奏しているという音楽でした。
そして日が落ち、ステージ前面に巨大スクリーンが垂らされると、ついに「パープルレイン」の上映開始です。低いフェンスで仕切られた会場内をぎっしり埋め、そしてフェンスの外を取り巻いてもいる観客を眺めて改めて思いましたが、老若男女、本当にいろいろな人がいます。ざっと見たところ男と女の割合は半々。そして、ティーンもいれば私のような中年もいます。人種構成も偏っていません。5割が白人、4割が黒人、1割がアジア系などそれ以外、という印象です。アメリカのポップミュージシャンとして、これぐらいバラエティーに富んだ客を集められるメガスターは、私は他に、故マイケル・ジャクソンくらいしか思いつきません。例えば、プリンスより17歳ほど年上のボブ・ディランがアメリカのポップカルチャーに与えた影響は、少なく見積もってプリンスと互角、おそらくプリンスを凌駕すると思います。しかしディランのコンサート会場を占めているのは、中年以上の白人だけです。
アメリカの音楽雑誌「SPIN」7月号は、映画「パープルレイン」を特集していました。ここで、かつてプリンスのバンドにいた面々が座談会を開き、かつてのボスの長所も短所も赤裸々に語っています。「パープルレイン」以前のプリンスが、白人の庶民派ロックシンガー、ボブ・シーガーを見て「なぜ彼はこんなに人気があるんだろう」と、当時のキーボーディスト、Dr.フィンク(同じく白人)に尋ねたそうです。フィンクは「そりゃ彼は、メインストリームで受けるポップロックを演っているからね」と答えました。その時のことを振り返り、フィンクは座談会でこう語っています。
「当時、マイケル・ジャクソンとプリンスが壁を壊しつつはあったけど、でもまだまだ、メインストリームのラジオ局では、人種による区別(segregation)があったんだ。だから俺は言ったよ。『いいかいプリンス。もしあんたがあの路線で(シーガーのようなポップロック路線で)曲を書けば、今よりももっともっとクロスオーバーできるよ』ってね。もちろん、プリンスが『パープルレイン』を書いたのは俺のせいだなんて言っているんじゃないよ。でも、少しは影響を与えたのかなって思うんだ」
引用が長くなりましたが、私が言いたいのは、こういう点でも、やはりマイケルとプリンスは別格なんだよな、ということです。
さて、話を戻します。今回の「パープルレイン」上映は、単なる上映ではありませんでした。劇中、プリンスが歌ったり、プリンスの曲が流れたりするシーンでは、まるでカラオケのビデオのように、歌詞の字幕がスクリーンに現れるのです。観客に一緒に歌わせようという工夫です(もっとも、歌詞を丸暗記しているので字幕など必要ないファンも少なからずいたようですが。ってそれは私のこと?)。この工夫が大ウケでした。歌詞が現れるだけでなく、スクリーンの前に3人のシンガーが出現し、観客と一緒に合唱までしてくれるのです。



屋外の映画上映は、それが無料である場合は特に、途中で退席していく人が少なくありません。しかし昨夜の「パープルレイン」では、途中退席者はほとんどいなかったと思います。なぜなら観客の大多数が、映画の最後でプリンスと一緒に「パープルレイン」を歌えると知っているからです。案の定、最後のライブシーンは大盛り上がりでした。上映が終わってスクリーンが暗くなり、ぞろぞろ家路につき始めた観客の多くが、えんえんとあの「ふ~ふ~ふ~ふ~」というハミングを続けていたのです(ってそれは私のこと?)。(細田雅大)