手結のとんどさん
永遠の愛の誓い(The Heart's Eternal Vow)
書評:ガブリエル・ガルシア=マルケス「コレラの時代の愛」
トマス・ピンチョン(1988年)
訳:細田雅大
(ご注意:「ユリイカ」1989年2月号のピンチョン特集に掲載された若島正さんの翻訳「永遠の心の誓い マルケスの『コレラの時代の愛』によせて」を学生時代に読んで感動したものの、その後、この雑誌を紛失してしまい、苦し紛れに自分で和訳してみたものです。訳の質など、若島さんの翻訳より劣っているはずですので、ピンチョン愛好家の皆さんは、ぜひ「ユリイカ」の当該号を当たってみてください。)
愛とは、ミッキーとシルヴィアが1956年のヒットシングルで思い出させてくれたように、愛とは、不思議なものである。年をとればとるほど、愛はますます不思議なものになっていく。そしてある時、私たちはいつか必ず死ぬのだと意識せざるを得なくなる。永遠性のゲームを語り続ける一方で、突然、生と死の限られた時間の中に捕らえられてしまう。ラブソングやロマンス小説、ソープ・オペラ、ティーンエイジャーの愛に関する陽気な宣言が、私たちにとって、我慢のならないものになるとは言わないまでも、ますます耳障りなものになっていくのは、ちょうどその頃である。
しかしもし、こうしたロマンチックな土台が無くなってしまったら、思春期特有の不死的なあの希望が、もし本当に無くなってしまったら、私たちはどこに行くことになるのだろう。少なくとも、生命の大枝からは遠く離れた場所だろう。それならば、“永遠の”愛を誓うだけでなく、実際にその誓い通りに生きることが可能だと考えてみてはどうだろう。愛の誓いに基づいて、満ち足りた本物の人生を、末永く送ることができるとしたらどうだろう。一人の人間に割り当てられた時間という貴重な掛け金を、愛のおもむく場所に賭けられるとしたらどうだろう。この途方もない前提こそ、新作小説「コレラの時代の愛」で、ガブリエル・ガルシア=マルケスが、意気揚々と約束するものなのである。
ロマンチックさが衰退した70~80年代、かつてはある世代の特徴を表す魔法の言葉だった愛に関して、誰もが賢くなり、いくぶんパラノイア的になったこの時代において、愛について日常語で書くことは、つまり愛を、その愚かさや不正確さ、趣味の悪さを含めて、まったく真剣に取り上げようとすることは、どんな小説家にとってであれ、大胆な決断である。そしてこれは、私たちがフィクションの中に価値を認める、あの、より高度な遊戯の形式に値するものなのだ。ガルシア=マルケスにとってこの決断は、革命的なものですらあったかもしれない。「愛に関する小説は、そのほかの小説と同様に有効なものだと思う」。1982年に出版された「グアバの実の香り」の中で、友人のジャーナリスト、Plinio Apuleyo Mendozaに対しマルケスはそう語っている。「実際のところ小説家の務めとは、革命的な務めと言ってもいいんだが、うまく書くことなんだ」
そして彼は、ああ、なんとうまく書いていることだろう。熱烈な抑制とともに、そして、熱狂的な落ち着きとともに、彼は書く。他の作品に見出されるあのガルシア=マルケス的声は成熟し、新しい力を見出して育て、一瞬にして古典となると同時に馴染み深くもあるレベルに達し、オパールの輝きを持ちながらも純粋で、賛美するかと思えば呪いの言葉を吐き、笑うかと思えば泣き、ホラを吹くかと思えば唄を歌い、必要があれば離陸して、空高く舞い上がっていく。世紀の変わり目に行われた気球旅行を描写する、以下の箇所のように。
「神のように天上から下を見下ろすと、カルタヘーナ・デ・インディアスの由緒ある英雄的な町の廃墟が見えた。そこは三世紀にわたってイギリス人の攻撃と海賊の暴虐に耐えぬいてきたが、猛威をふるうコレラには勝てず、住民によって見捨てられた世界一美しい町だった。城壁は無傷で、通りにはキイチゴが生い茂り、要塞は三色スミレに覆い尽くされ、金の祭壇のある大理石の宮殿には甲冑姿のまま疫病によって腐り果てた歴代の副王たちが眠っていた。
彼らは狂ったように派手な色のペンキを塗ったラス・トローハス・デ・カターカの湖上住居の上を通過したが、下には食用イグアナ飼育場やホウセンカやアストロメリアの釣り鉢が飾ってある湖上庭園が見えた。羽飾りのついた帽子をかぶった美しい女性が軽気球の吊り籠から衣服の包みや咳止めシロップのびん、食べものなどを施しものとして投げ落とすと、大勢の裸の子供たちが歓声をあげながら窓や家の屋根、あるいは驚くほど巧みにあやつっていたカヌーから水に飛び込み、ニシンダマシのようなみごとな泳ぎっぷりで水中にもぐって、投下されたものをとりにいった」(木村榮一訳)
不死性に基づく愛の誓い、ある人々にとっては若気の至りに過ぎないそうした愛の誓いは、人生のずっと後半、私たちに知恵がつき、否定できない死に直面した時であっても、やはり依然として名誉ある誓いであると大胆に主張する点においても、この小説は革命的である。これは実際のところ、死後の肉体の復活を主張することにつながり、この考えは、今日においてのみならず、人類の全歴史においても、避けがたく革命的なのだ。常に価値転覆的な伝達手段であったフィクションにおいてマルケスは、それがいかにして可能かを、実にもっともらしく示している。そして彼の野望は、本の世界の外側にいる私たち、人を傷つけ堕落させようとするこの世界に数年生きれば誰もがそうなってしまうように、打ちのめされ、買われ、そして再び売り飛ばされる私たちにも、それを信じさせようとするのだ。
あらすじを紹介しよう。物語の舞台は、1880年代から1930年代にかけてのカリブ海沿岸の港町。名前は付けられていないが、カルタヘーナとバランキーリャを、そしておそらくは、公式な地図には載っていない、精霊の住む町を混ぜ合わせた町だと考えられる。3人の主要な登場人物が、三角を形成する。その斜辺となるのがフロレンティーノ・アリーサ。彼の現世的な運命は、カリブ河川運輸会社と、その所有となる外輪汽船とともにあるとはいえ、彼は、肉体的な愛、そして肉体を超えた超越的な愛の両方に自らを捧げる詩人である。若き見習い電信技師であった時に彼は、「生まれつき高慢な感じ」がし「雌鹿を思わせる軽やかな足取りは重力の影響をまったく受けていないように」見える「アーモンドのような目をした美少女」、フェルミーナ・ダーサと出会い、永久に恋に落ちてしまう。面と向ってはほとんど100語も会話を交わさないまま、二人は手紙と電報だけを使って連絡し合い、事態に気づいた彼女の父親が長期間の「忘却の旅」に彼女を連れ出した後でさえも、情熱的で密やかな愛を育む。しかし、旅から戻ってきた彼女は結局、恋に苦しむその若者を拒絶し、代わりに、まるで19世紀小説に出てくるヒーローのように家柄が良く、おしゃれで、いくぶん自己愛が強いとはいえ大変な人気者であるフベナル・ウルビーノ博士と出会い、結婚してしまう。
愛の生き物であるフロレンティーノにとって、この挫折は、苦しみをもたらしはするが、決して致命的なものではない。フェルミーナ・ダーサを永遠に愛すると誓った彼は、彼女が再び自由の身になるまで、いつまでも待ち続けることを決心する。そして51年と9カ月と4日後、1930年頃の五旬節の日曜日に、フベナル・ウルビーノ博士はいきなり、馬鹿馬鹿しいことにマンゴーの木の上にいるオウムをつかまえようとして死んでしまう。葬式が終わり、弔問客が全員帰ってしまった後、フロレンティーノは、胸のところに帽子を当てて、彼女の前に歩み出る。「フェルミーナ」と彼は宣言するのだ。「僕はこの機会を半世紀以上にわたって待っていた。君にもう一度、永遠の貞節と変わることのない愛を誓いたいと思う」。衝撃を受けて怒ったフェルミーナは、即刻家から出るよう命じる。「あなたが、あと何年生きられるか知りませんが、二度とこの家の敷居をまたがないでください。長生きされないことを祈っています」
永遠の愛の誓いは、限りある現世の時間にぶつかってしまう。二人のこの対面が起きるのは、ウルビーノ博士の人生最後の日を描写し、フェルミーナの未亡人としての最初の夜を描く、第一章の終わりである。そして私たちは、50年ほど後戻りし、コレラの時代にまで遡る。中間の章では、世紀の移り変わりとともに、3人の人生が、ウルビーノ博士とフェルミーナの結婚、カリブ河川運輸会社でのフロレンティーノ・アリーサの出世を通して描かれる。最終章は、第一章が終わった時点から始まる。たいていの男ならもう可能性はないと思うだろう強い拒絶にもめげず、決意をあらたにしたフロレンティーノは、フェルミーナ・ダーサへの求愛を再開し、彼女の愛を勝ち取るためならどんなことでもするのである。
彼らの町では、その動乱の半世紀、いたるところに死が広がっていく。断続的な恐ろしい流行により町を席巻する致命的な病、コレラ(el colera)がもたらす死。そして、英語では choler(癇癪)もしくは anger に相当するのだが、その行き着く先は戦争であるコレラ(la colera)がもたらす死。本書では、一方の犠牲者が、他方の犠牲者と間違えられる。ここでは戦争(「常に同じ戦争」)は、何らかの意味があり得る政治手段の延長としてではなく、ただ大規模な死をもたらすだけの否定的な力、もしくは疫病として現れる。こうした暗黒の環境では、人生は、とても不安定なものであり、しばしば、死を相手にした意識的な抵抗運動、あるいは、絶対的な反抗にすらなってしまう。ウルビーノ博士は、彼の父親と同様に、公衆衛生対策を英雄的に押し進め、コレラを相手にした闘いの指導者となる。フェルミーナは、夫よりは昔の慣習を大事にするとはいえ、同じように勇気に満ち、妻として、母として、そして家庭の主婦として、自ら選んだ役割を勇猛にこなし、家族が安心して暮らせる場所を維持する。そしてフロレンティーノは、死の敵として昔から知られているエロスを抱擁し、誘惑者としての生涯を開始、「無数のつかの間の恋を別にすれば、622人にのぼる女性との関係」を持つに至る。しかし彼は、時の流れには鈍感なまま、心の奥深くで、フェルミーナへの貞節と、いつか彼女と人生をともにできるという消え去ることのない希望を持ち続けるのだ。だから最後、彼は彼女に正直に言う(もっとも彼女はまったく信じないのだが)。君のために、ずっと僕はヴァージンであったと。
本作をフロレンティーノの物語だと考えれば、これは一種のビルドゥングスロマン(成長物語)であり、彼が私たち読者の不信感を少しずつ取り除いていくにつれ、私たちは彼を応援し、年齢と死を相手にして戦う頑固な闘士である彼の勝利を、愛の名において、願うことになる。しかし、フィクションが作り出す最良の登場人物の例に漏れず、彼は自律性を主張し、私たち生身の人間と同様に、曖昧な存在であり続ける。私たちは、あるがままの彼を受け入れねばならない。路上や恋人たちの避難所で、あまりにも気楽にねんごろな関係になる雄ネコとしての彼の運命に、付き合わねばならない。その結果もたらされる事態に対して彼は、滑稽かつ危険なほど無関心であり、その無関心さはしばしば犯罪的な怠慢の域にまで近づくのだが、彼が災難を免れているのは、その無関心さのためなのである。彼が幸せにしてやる運命にあった未亡人たちの一人、ナサレット夫人は、町を包囲している反乱軍が夜通し砲撃する中で、彼を誘惑する。美しい家具にあふれた家のベッドで、彼がアウセンシア・サンタンデールと楽しくいちゃついている間に、家の中の物がすべて盗まれてしまう。カーニバルで引っ掛けた少女は、庭師から奪った山刀をふるって精神病院から脱走してきた殺人狂であることが判明する。オリンピア・スレータの裸の腹に、うかつにもフロレンティーノが赤い塗料で愛情表現を書き残したがために、彼女は夫に殺されてしまう。愛人としての彼の非道徳性は、こうした個人的な災難のみならず、生態系の破壊をももたらす。本書の終盤で彼自身が気づくように、彼の河川運輸会社は、汽船の燃料とするために薪(まき)を貪欲に求め、かつてはマグダレナ川沿岸を覆っていた緑の森を一掃し、どんな生き物も生存できない荒れ地に変えてしまう。「フェルミーナ・ダーサへの情熱のせいで彼の心は曇っており、川のことに思いが及ばなかった。状況に気づいた時にはもう、新しい別の川を持ってくる以外、打つ手はなくなっていた」
実のところ、フロレンティーノがどうにかこうにかやっていけるのは、彼の夢の激しさや純粋さのせいだけでなく、単なる運の良さのせいでもある。著者のこの登場人物に対する愛情はとても強いのだが、そこに伴うマチズモ倫理観への密やかな反感が完全に克服できているわけではない。ガルシア=マルケスは、マチズモ(南米的男らしさ)の倫理が特に好きなわけではなく、どこか別のところでは、マチズモは他者の権利の強奪であるとあっさり片付けたこともあるのだ。たしかに、彼のほかの小説から想像できるように、本書でもやはり、現実によりよく対応し、より強くあるのは、女性の方だ。フロレンティーノが恋に狂い、コレラに似た症状を表した時、彼をその状態から救い出したのは、母親であるトランシト・アリーサである。彼が数えきれないほどの淫乱な肉体関係を持てるのは、伝統的な男らしい取り柄が彼にあるからではなく、むしろ彼が、明白に、そして痛々しいぐらい、愛されることを欲しているからなのだ。だから女性は、彼と寝るのである。「醜くて陰気だけれど」と、フェルミーナ・ダーサの従姉妹であるイルデブランダは言う。「彼の心には愛が一杯つまっているわ」
マジメくさった顔でホラを語るのが大好きな男、ガルシア=マルケスは、自らの来歴を語ったことがある。19歳の時、カフカの小説「変身」の名高い冒頭、朝目覚めると巨大な昆虫に変身している男の話を読んだ彼は、文学的な天啓を受ける。「なんてことだ!」とマルケスは、英語にはないスペイン語の表現で叫んだ。「おばあちゃんの語り口とまったく同じじゃないか」。この時から彼は、小説に関心を持ち始めた。その後の作品に現れる、いわゆる「マジック・リアリズム」とは、彼によれば、おばあちゃんの声に他ならないのだ。
とはいえ、本書で私たちは、「百年の孤独」の舞台であった魔法の村、住民たちが日常的に空を飛び、死んだ人間と何気ない会話を交わすあのマコンドからは、かなり離れてしまった。たぶん私たちは、同じ川の流れに乗って下り、カリブ海の沿岸、戦争と疫病と都市的混乱のただ中に到着したのである。その場所に取り憑いているのは、個々の死者というよりは、歴史である。声を上げる機会がないまま、あるいは、声を上げてはみたが聞き入れられないまま、あるいは、聞き入れられたものの記録には残されないまま、あまりにも多くの人間が倒れていった歴史である。そうした声なき者たちを救い出すことも、「うまく書くこと」と同様に革命的な、小説家の務めだ。ガルシア=マルケスはこの務めを、敬意と同情をもって成し遂げている。「百年の孤独」を“超えた”などと言うのは失礼だろう。しかし明らかにガルシア=マルケスは、どこか違う場所へと移動しており、フロレンティーノが学ぶことになるように、「誰も人生を教えることはできない」という、より深い認識に達している。もちろん本書にも、実際には起こり得ない楽しい驚きの瞬間は残っていて、それらは、以前と同じ平然としたユーモアで語られる。ベッドの足もとに立つ幽霊、匿名の人物から届いた呪いの人形、ほとんど端役に過ぎないが、フベナル・ウルビーノ博士の死の原因となった不吉なオウムなどなど。しかし、配慮とエネルギーを注ぎ込むよう著者に要求しているのは、実際には起こり得ない物事ではなく、“現実”に関する私たち人間の総意、つまり、愛と愛の消滅の可能性こそ、私たちを動かしている不可避の動力であるという総意である。さまざまなマジックは、必ずしも些末なものとなったわけではない。視野が広がり、成熟し、より暗いものになったヴィジョン、とはいえ決して情け深さを失ってはいないヴィジョンに役立てるため、注意深く用いられているだけなのだ。
愛について正直に書く方法は、これしかないと言えるだろう。暗黒と有限性がなければ、ロマンスやエロチカ、社会喜劇やソープ・オペラは生まれても(ちなみに、こうしたジャンルもすべて、本書で見事に表現されている)、大文字のL(the Big L)は生まれない。ここで要求されているように思われるのは、ある種の観点、ある種の理解とともに、登場人物への愛情を抑制する著者の能力である。著者の愛情のすべてを読者に示さないでいられる能力、つまり、たわごとを垂れ流さないでいられる能力だ。
「コレラの時代の愛」の翻訳にあたり、訳者のエディス・グロスマンは、著者の声のさまざまなニュアンスに繊細かつ創造的に波長を合わせ、この規律の要素を、注意深く聴き取っている。私のスペイン語は完璧ではないが、著者の文章のスイングする動きと半透明性を、スラングから古典主義に至るその響きのすべてを、叙情的にずんずん続く文章と、その最後で、著者が私たちをはっと驚かせるために好んで用いる決めの言葉を、実に見事に、苦労の跡もなく把握していることが分かる。これは、正確で美しい翻訳だ。
カリブ河川運輸会社で働き始めた当初、どうしてもロマンチックな詩情を消し去れず、どれほど単純な業務文書でもラブ・レターのようにしか書けないフロレンティーノ・アリーサが、社長である叔父のレオ12世と話し合う場面がある。うまく業務文書が書けない彼は、「僕は愛にしか興味がないんです」と言うのだ。
「困ったことにだな」と叔父は応える。「川船が動かなければ、愛もまた、存在しないんだよ」。フロレンティーノにとってこれは、文字通り真実である。半世紀を隔てた2回の重要な川の旅が、彼の人生を形成するのだから。最初の旅で彼は、フェルミーナ・ダーサの住む町に戻り、そこでずっと暮らすことを決心する。どれだけ時間がかかろうと、愛を貫くことにしたのだ。荒廃した景色の中を航行する2回目の旅では、時間に抗い、愛の中へと進んでいく。フェルミーナを、ついに横に携えて。この最終章のような驚くべき文章を、私は読んだことがない。交響曲のように、しっかりとテンポよくダイナミックで、それ自体が川船のように進み、その船長である著者は、人生の経験に満ち、懐疑と慈悲の危険な流れの中、私たち読者を誤りなく導いていく。この川は、私たちの誰もが知っている川、ここを旅せずに愛はなく、その流れに抗して戻らねば、追憶という栄えある名前に値しない。その結果として生まれる最良の作品は、私たちの疲れ切った魂をすら蘇らせてくれる。この輝かしく、そして胸の張り裂けそうな小説「コレラの時代の愛」こそ、まさにそういう作品なのだ。(終)