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「心は転がる石のように Papers 2003-2004」

 四方田犬彦
 ランダムハウス講談社

世界を飛び回る知識人の危険地帯見聞記

 この人の本を読むのは、実は初めてだ。

 でも、「よもたいぬひこ」という変わった名前のこの人のことは、ずっと前から知っている。ゼミでユートピア文学を研究していた大学生の頃、彼が書いたユートピア論文を読んだ時から、その名を忘れたことはない。細部は覚えていないけれど、鮮烈な論文だった。今から十六、七年前のことである。

 そしてもちろん、私がこの人を忘れなかったのは、名前が変だからである。四方田犬彦。よもたいぬひこ。本名なのか筆名なのか知らないけれど、すごくいい名前だ。

 その彼の新刊本が、書評担当者のところに送られてきた。誰もピックアップしそうにないので私が取り、何の気なしに読み出したら、すごく面白かった。勉強にもなった。なぜ今まで、彼の本を読まなかったのだろう?

 映画史が本業であるこの人は、その土地の映画を観るために、危険と言われる国であってもどんどん出かけていく。そして、勇気がなくて出かけられない私たちのために、旅の経験を語ってくれる。本書の前半部は、いわば普通のエッセイだ。もちろんここも面白い。けれど白眉(はくび)は、最後のイスラエル旅行記だと思う。

 当時は首相ではなかったアリエル・シャロンが、2000年にパレスチナへの挑発行為を行って以来、自爆テロがひどくなったイスラエル。そこへわざわざ行くのである。本書には、危険を顧みずに出かけた人にしか書けないことが書かれている。例えば以下のように。

 「バスで一番危険なのは、入り口である。自爆攻撃者が乗り込もうとした瞬間に見とがめられて、決行するという場合が多いからだ。だから乗客はなるべく後方の座席に座ろうとする。そんなことをしたところで、実際に爆弾が破裂してしまえば、同じことだというのに」

 この最後の旅行記「とうとう、イスラエル」だけでも、ぜひ読んでみてください。(細田雅大/2005年)

「私はコロンビア・ゲリラに二度誘拐された」

 志村昭郎
 ランダムハウス講談社

世界的に貴重なゲリラ誘拐体験記

 1999年からその翌年にかけてニューオーリンズに住んでいた私は、そこでたくさんのコロンビア人と知り合った。そのうちの一人が、首都のボゴタ市にある自宅に招待してくれた。世紀の変わり目を一緒に祝おうというのだ。

 あの国がいかに危険かは、ニューオーリンズにいた頃から十分にうかがわれた。女の子たちとの夜遊びが終わり、そのうちの一人に「君の家まで送ってくよ。ニューオーリンズは物騒だしね」と申し出た時のことだ。彼女の発言は私を驚かせるに十分だった(私を悲しませるにも十分だった)。

 「その必要はないわ。私たちの国コロンビアに比べたらここは裏庭みたいなものよ。だから心配しないで」

 コロンビアは、ニューオーリンズを「裏庭」にしてしまうほど危険な国なのだ。

 でも、せっかく招待されたので、私はボゴタに飛んだ。そして「大みそかはコロンビアで最も美しい都市カルタヘナへ行って過ごそう」という話になった。招待してくれた友人は急いで航空券を探したが、すべて売り切れていた。

 「鉄道や車では行けないの?」と私は聞いた。
 「行けるけど、鉄道や車は駄目。君が誘拐されるかもしれないから」

 結局カルタヘナ行きを断念し、ゲリラに誘拐されずにすんだ私と異なり、本書の著者、志村昭郎氏は2回も誘拐されてしまった。

 最初の誘拐は1998年。1929年生まれの志村氏が69歳の時のことだ。極限生活を送るには酷な年齢だと思うが、志村氏は負けない。ゲリラたちに空手を教え、奇妙に友好的な関係まで築き上げてしまう。そして、なけなしの貯金を身代金として渡し、ついに解放。それで懲(こ)りてもよさそうなものを、志村氏は再びコロンビアに渡る。コカインの原料となるコカ栽培を止め、果樹栽培への転作を成功させることで、明るい未来をもたらそうとするのである。しかし、運悪く2回目の誘拐。

 その貴重な記録である本書を強くお薦めします。(細田雅大/2005年)

「自暴自伝 ポンタの1972→2003」

 村上“ポンタ”秀一
 文藝春秋

最強ドラマーがつづるポップミュージック裏面史

 村上“ポンタ”秀一というドラマーをご存知だろうか。

 ポップミュージックの世界では、一般的にボーカリストやギタリストに注目が集まりやすく、ドラマーはあまり目立たない存在だから、知らない人も多いかもしれない。

 しかし、ポンタさんが叩いている曲を聴いたことがない日本人は、皆無に近いはずだ。

 1972年、「赤い鳥」というポップス・グループの一員としてデビューして以来、30年以上も凄腕(すごうで)のドラマーとして活動してきたポンタさん。ある時はスタジオ・ミュージシャンとして、またある時は自らのバンド「PONTA BOX」のリーダーとして、良い音楽なら何でも叩きまくってきた「最強」(ビートたけし)のドラマーなのである。

 スタジオ・ミュージシャンとしていちばん忙しかった時期には、3時間おきに都内のレコーディング・スタジオを回り、「山口百恵ちゃん、キャンディーズ、ピンクレディー、郷ひろみ、松田聖子から五木ひろしまで、本当にいろいろな歌謡曲を叩いた」という。最も仕事が多かった年になると「セッションが2780本、CM832本という記録」を作ったほどだ。叩く音楽のジャンルも、歌謡曲に限らず、ロック、ラテン、ジャズと幅広い。

 そんな人が「思いついたなりに話していった」語りをまとめたのが本書である。面白くならないはずがない。この30年、日本の大衆音楽が生み出される最前線に居続けたポンタさんが語るわけだから、登場する人物も有名な歌手や音楽家ばかりである。日本最強のドラマーの自伝、あまり日が当たらないドラマーという仕事の紹介本として価値が高いだけではない。著名人の初期のエピソードや彼らに対する鋭い寸評も満載で、ゴシップ的にも楽しめる本なのだ。

 例えば、「絶対一緒に酒なんか飲みたくないタイプ」の都倉俊一(作曲家)、「バタ臭いようでいて、案外日本人の郷愁に訴えるところがある」筒美京平(作曲家)、「イメージとしては“女ボブ・ディラン”だった」五輪真弓、「歌手である以前にカリスマである」郷ひろみ、「ふだんは地味」だが「別格」の沢田研二、「フケまみれの長髪、ゲタばき」で「ずっと同じウェスタン・シャツにフケでコテコテのバックスキンの黒のジャケット。それ以外の服を着てる」のを見たことがなく、「きたなさときた日には並じゃなかった」坂本龍一、レコーディング中、「こんなもの見て叩くな!!」と怒鳴り「譜面をもうバンバン投げる」矢沢永吉、「自分に対して、これ以上ないくらい辛辣」で「それこそ自分の体を切り刻んでいるようなパフォーマンスだった」尾崎豊、「とにかく誰とも口をきかなかった」井上陽水などが登場する。

 時に毒舌なポンタさんの愛情ある語り口を生かした文章は、とても読みやすい。少しでも音楽に興味がある人なら、あっという間に読み終えることができるだろう。(細田雅大/2005年)

「ほんとうの私」

 ミラン・クンデラ著、西永良成訳
 集英社

クンデラの耐えられる難解さ

 ミラン・クンデラと言えば、何よりもまず「存在の耐えられない軽さ」ということになっているようだ。アマゾン・ドットコムで調べてみると、クンデラの小説では、やはり「存在……」が一番売れている。20世紀を代表する小説の一つとされる「存在……」は、ダニエル・デイ=ルイスとジュリエット・ビノシュという豪華な主演で映画にもなった。

 私は映画は観たが、小説は読まなかった。小説の方は、とてつもなく難解な気がしたからだ。そういう人は案外、多いのではないだろうか。

 「クンデラはチェコスロバキア生まれだが、チェコで小説が発禁となり、フランスに亡命してフランス語で小説を書いてきた」

 「クンデラは哲学談義が大好きで、作中に自ら登場人物として現れ、難しい形而上学(けいじじょうがく)をとうとうと語ったりする」

 映画化された80年代の後半、そんなふうにクンデラの凄(すご)さと高尚さが語られ、私は脅かされてしまったのである。「きっと小難しいことばかり書かれているに違いない」と思った私は、映画化から十数年、クンデラの本にはまったく手を出さないで過ごしてきた。だから今回、たまたま日系の古本屋で見つけ、1ドルという激安価格で叩き売られていたからこそ買ったこの本、「ほんとうの私」が私にとって初めてのクンデラ体験となる。

 で、さっそく読んでみたところ、少なくともこの本は、決して難解ではなかった。「いったいこれのどこが難解なの?」と聞きたくなるほどだ。そして面白かった。

 主要登場人物は、どうやら更年期を迎え、体がすぐにのぼせ、赤くなってしまうようになったシャンタルと、彼女の年下の恋人で、いろいろな職業を転々としてきたジャン=マルクの2人。シャンタルは広告代理店で働いていて、ジャン=マルクよりも数倍多く稼いでいるけれども、決して幸福ではない様子。本来の自分を殺しつつ、広告代理店ではいかに良い社員として振る舞うか、自分が持つ「ふたつの顔」について、ジャン=マルクに語り聞かせるくだりが印象的だ。

 「あたしにはふたつの顔があるの。そのことからちょっとした楽しみを引き出すことだって学んだわ。でも、にもかかわらず、ふたつの顔をもつのは容易なことじゃない。それには努力が必要なの。規律が必要なの!」「完璧に仕事をしながら、同時にその仕事を軽蔑するというのはとても難しいことだわ」

 年の差、収入の差、そして仕事に対する考え方の差を抱えながらも、そこそこうまくやってきた二人。ところがある日、シャンタル宛に謎めいた匿名の手紙が届いてしまう。書かれていたのは「私はスパイのようにあなたの後をつけています。あなたは美しい、とっても美しい」というたったの1行。この手紙が届き始めてから、二人の考えにはすれ違いが多くなり、ついには意外な危機を迎えてしまう。果たして手紙の送り主は誰か? そしてシャンタルとジャン=マルクは、この危機を乗り越えることができるのか?

 というように書くと、まるでどこかの陳腐な恋愛小説のようだけれど、そこはさすがクンデラ。最後の数章、矢継ぎ早の急展開により、陳腐な恋愛小説は、崇高な神話的世界にまで高められていく。最後まで読み終えた読者は、「これはまったく普通の恋愛小説と違う」と思うことだろう。(細田雅大/2005年)

「吸血鬼が愛した大和撫子 フレッド・ブラッシーの妻として35年」

 三耶子・ブラッシー著
 栄光出版社

悪役レスラーを愛し支えた日本人妻の半生

 「吸血鬼が愛した大和撫子」という本書の題名は素晴らしいと思うし、年輩の人にとって「フレッド・ブラッシー」という名前はインパクトがあるはずだから、副題も効果的だ。

 でも、本書を読み終え、著者の三耶子(みやこ)さんのことが好きになった私は、一抹の不安が拭(ぬぐ)えない。「吸血鬼」「フレッド・ブラッシー」といった言葉が真っ先に目に入るので、プロレスファンに向けた本だと誤解され、手に取ろうとしない人も多いのではないか、と思うのだ。

 だから声を大にして言っておきたい。この本はプロレスファン向けの専門的な本ではない、と。

 もちろん、プロレスファンが読んでもめっぽう面白い。何と言っても主役の一人は、「吸血鬼」「かみつき魔」として恐れられ、力道山との試合では、テレビ観戦していた老人をショック死させたほどの悪役レスラーなのだから(念のため説明すると、力道山は、猪木と馬場の師匠に当たる戦後最大のレスラー)。

 でも、この本は決して「プロレス本」ではない。

 この本は、海を越え、27歳という年の差を越え、言葉の壁を越え、肉親との身を切られるような不和さえも乗り越えて、アメリカで一人の男を愛し続けた日本人女性の手記なのである。

 日本でプロレス巡業中だった希代の悪役レスラー、ブラッシーに街角で見初められ、熱烈な求愛を受けたものの、「結婚する前に顔を合わせたのは、わずか三回」に過ぎず「その三回とも立ち話程度」だったという三耶子さんが、ブラッシーの真意を確認するために渡米したのが1968年のこと。まだ24歳の時である。プロレスラーとの生活がどのようなものか想像することすらできないまま、言葉が通じず、知る人もない国アメリカへ渡ったのだ。

 「OLのお給料が月一万二千円」だった当時、三耶子さんは、ブラッシーが用意した航空券とは別に、自ら30万円を工面し往復航空券を購入していた。もし、ブラッシーの愛を信じ切ることができない場合は、復路の航空券を使って帰ってくるつもりだったのだ。

 しかし、ブラッシーを「観察して、彼の誠実さや律儀さに、偽りのないことが感じられ」「彼は本気で私を必要として、求めていることも感じられた」という三耶子さんは、復路の航空券を使うことなく、渡米から三週間後に結婚。ハネムーンに出かけたハワイでは、日光浴が好きだったブラッシーの隣りに座り、「単語を羅列しただけの会話」をして「少しずつですが、おたがいのことを知ることになりました」というのだから、その思い切りの良さは見事。

 一般的には、逆のコースが推薦されると思う。つまり、よく話し合い、お互いのことを知り、それから結婚、というコースが。ましてや三耶子さんとブラッシーの場合、国際結婚である。しかし二人は、結婚式を挙げてから、「単語を羅列しただけの会話」を通して、お互いのことを知っていく。

  なぜこうしたことが可能になったのだろう? それはきっと、三耶子さんに対するブラッシーの愛が巨大なものであり、三耶子さんはその巨大な愛をしっかり受け止め、彼を愛し返したからに違いない。

 この本は決して「プロレス本」ではない。日米に股がり、死が二人を分かつまで、お互いを愛し続けた女と男の記録である。だから、ぜひ皆さん読んでください。(細田雅大/2005年)

「フレッド・ブラッシー自伝」

 “クラッシー”フレディー・ブラッシー、キース・エリオット・グリーンバーグ著
 阿部タケシ日本語版監修
 エンターブレイン

すべてを語る吸血鬼 プロレスファンなら必読

 プロレスでは通常、試合の勝敗は事前に決められていて、真剣勝負というものは存在しない。プロレスにおける流血は、血を流す選手本人かレフェリーが、密かにカミソリを用い、選手の額を切って出す。

 こうした事実を日本で最初に大っぴらにしたのは、新日本プロレスでレフェリーをしていたミスター高橋である。彼が2001年に発表した「流血の魔術 最強の演技―すべてのプロレスはショーである」(講談社)は、プロレスの仕組みをすべて明らかにする画期的な本だった。

 ここアメリカでは、それよりも10年以上前に、プロレスが真剣勝負でないことが関係者によって暴露されていた。世界最大のプロレス団体、WWEのオーナーであるビンス・マクマホンが、1989年、ある裁判の席で「プロレスは勝負ではなくエンターテインメントであり、選手は台本に従って動いている」と明言したのである。

 本書は、1930年代後半から90年代まで、生涯をプロレスに捧げたフレッド・ブラッシーの自伝である。「吸血鬼」「かみつき魔」として恐れられた伝説的な悪役レスラーとして、そして晩年は、ハルク・ホーガンなど新進レスラーのマネージャーとして、プロレスの表も裏も味わい尽くしたブラッシー。

 自分も含めた有名選手の下半身の話から、最愛のミヤコ夫人との結婚生活までのすべてが、まったく飾ることなく明らかにされている本書を楽しむためには、まず、「プロレスが真剣勝負でないこと」を知っておく必要があるだろう。「ワーク」だとか「ジュース」だとか「バンプ」といった隠語が、必ずしも十分な説明なしに用いられているからである(ちなみに「ワーク」とは、あらかじめ進行や勝敗が決められた試合を行うこと。「ジュース」とは、流血のこと。そして「バンプ」とは、しっかりと、しかし派手に受け身を取ることだ)。

 子供の頃に夢中になって見ていたプロレスが真剣勝負でないと知り、「だまされた」と思ってプロレスが嫌いになった人もいるかもしれない。私は違う。プロレスのからくりに幻滅し、レスラーを軽蔑し始めたりはしなかった。その正反対だ。自分を切り刻み、故障した身体にむち打ち、入念に練られた台本に合わせて自己を表現するレスラーたち。その内幕を知った私は「そこまで苦労して、ファンを楽しませようとしていたのか」と驚き、感動してしまったのである。

 本書がもたらすのも、同じ感動だ。プロレスはショーではあるが、だからと言って、ラクな商売であるわけではない。転戦に次ぐ転戦。バンプに次ぐバンプ。ブラッシーもまた、家庭を犠牲にし、身体をボロボロにしながらリングに上がっていたのである。観客を喜ばせたいがために。観客を満足させることが大好きだったがために。

 プロレスという特殊なジャンルに対する愛が伝わってくるからこそ、私は感動するのだ。

 なお、本書は「自伝」ではあるが、まるで第三者によるドキュメンタリーのように、ところどころ書体を変えて、関係者の独白が挿入されている。この独白が、ブラッシーが語る内容に信憑(ぴょう)性を与えていて効果的だ。有名レスラーの裏の顔や、伝説的な試合、例えば猪木対アリ戦(真剣勝負だった)の真相も洗いざらい明かされているので、プロレスファンなら必読である。ハリウッドでの映画化も熱烈に希望します。(細田雅大/2005年)

「さようなら、私の本よ!」

 大江健三郎著
 講談社

テロに手を貸すノーベル賞作家

 スラスラとは読めない。悪文と言っていいほどの読みにくさの文章を、つっかえながら読んでいく。一つ一つの文章に込められているはずの作者の苦心の跡を、何とか見つけ出そうとするかのように読んでいく。

 その結果、ある文章の意味が、さらに言えば一冊の本の内容が、読者に明確になるかと言えば、そうではない。読み終えた時、心に残るのは意味や内容ではなく、「私は確かにこの本と一緒に、人生のある時を過ごしたのだ」という重い塊のような感覚のみ。

 私にとって、大江健三郎の小説を読むのは、いつもそうした体験だった。70歳を超えてなお旺盛な執筆力を示すこの作家の、後期を代表すると言われる三部作、「取り替え子(チェンジリング)」「憂い顔の童子」、そして昨年出版された「さようなら、私の本よ!」を続けて読んだ今も、私は途方に暮れている。あらすじを紹介し、気の利いたコメントを付けて「一丁上がり」という書評は書けない。「根気が必要ですし、これまでの大江作品を読んでいないとチンプンカンプンな部分もあるでしょうけど、世の中のほかの小説とは全然違う気がします。こんな本は、そうそう存在しないのではないでしょうか。まあ読んでみてください」としか言えない気がするのだ。そもそも私には、この三部作が、成功しているのか失敗しているのかすら判断できない……。

 でも、頑張って何とか書評らしくしてみよう。

 まずこの三部作は、壮大かつ下品な「モデル小説」だと言えるだろう。登場人物の多くには、明確なモデルが存在する。例えば、三部作の主人公である長江古義人(ちょうこうこぎと)は、大江健三郎その人である。そのほか、大江の義兄であり、「お葬式」「タンポポ」などの傑作を撮った映画監督の伊丹十三が「塙吾良(はなわごろう)」として、また、大江が強く影響を受けた作曲家の武満徹が「篁透(たかむらとおる)」として登場する。各界の巨人が、微妙にズレた名前を与えられて、活躍するわけだ。そういう点でこの三部作は「壮大」なモデル小説である。特に最初の2作、「取り替え子」と「憂い顔の童子」は、塙吾良(伊丹十三)が飛び降り自殺をした理由を探求する物語として読めるだろう。

 同時になぜこの三部作が「下品」なのかと言えば、大江健三郎の文学・政治上の敵も同じように登場し、からかわれているからだ。例えば、文芸評論家の江藤淳は「迂藤(うとう)」として、東京都知事の石原慎太郎は「芦原(あしはら)」として言及され、前者は戦前の上流階級を意識する男として、後者は実際は小心な男として馬鹿にされている。そのほか、名前こそ与えられていないが、本多勝一、北野武、浅田彰、坂本龍一らも彼らの「低劣な人間らしさ」が暗示される形で触れられている。

  まるで私怨を晴らそうとするかのような大江健三郎。下品だけど、何だか凄い。陰湿なのか明朗なのかよく分からないし……。

 しめくくりの作品「さようなら、私の本よ!」でも、イタズラ心というか悪意は衰えていない。この作品の長江古義人(大江健三郎)は何と、国際テロリストに自ら協力しようとするのである。

  一般的には良識の人だと思われているノーベル賞作家、大江健三郎。でも、小説におけるその悪意は凄まじいと私は思う。興味がわいてきた人は、ぜひお読みください。根気が必要ですし、これまでの大江作品を読んでいないとチンプン……。(細田雅大/2006年)

「あなたの子宮を貸してください」

 平井美帆著
 講談社

母性を育むには妊娠と出産が必要?

 本書は、子宮筋腫と卵巣のう腫を患ったことで不妊治療に関心をもった著者が、日米韓三国における生殖補助医療の現場に足を運び、代理出産を行う側、つまり、不妊に苦しむ夫婦、契約して子宮を貸す代理母、そして、彼らと医療機関の間を取り持つ代理出産エージェンシーの声を丹念に拾い上げたものである。

 本書によると、生殖補助医療技術の革新により、過去20年間で不妊治療の実態は大きく変化している。「試験管ベビー」誕生が騒がれたのは、はるか昔のこと。現在の技術は当時から大きく進歩し、例えば、「エッグ・ドネーション&ジェスティショナル・サロガシー」という方式の代理出産が可能になっている。日本語に訳すと「卵子提供による体外受精型代理出産」。依頼主の妻の卵子が高齢などの理由で使えない場合、卵子ドナーから提供された卵子に、依頼主の夫の精子を体外受精させ、その受精卵を代理母(卵子ドナーとは別人)の子宮へ移植するという方法だ。

 「産みの親より育ての親」という格言があるが、この「エッグ・ドネーション&ジェスティショナル・サロガシー」の場合、母親は二人どころではない。本書に登場する医師の言葉を借りれば、「育てのお母さん、遺伝のお母さん、産みのお母さん」の三人に分かれてしまうことになる。

 実際に代理出産に関わっている人々の声を聞かず、この図式だけを見れば、いかにも奇異に感じられるかもしれない。しかし、本書に登場する代理出産を行う側の人々の声を聞く限り、そこにグロテスクな陰りはない。

 私にとって特に印象的だったのは、依頼主の妻の代わりに妊娠・出産する代理母の動機が紹介されているところだ。彼女たちの中には、妊娠している状態が好きなので何回でも妊娠したいものの、事情があって自分の子供はもう持てない人がいるという。しかし代理母になれば、再び妊娠できるだけでなく、不妊に苦しむ夫婦を助けてもあげられるのだ。ある代理母が率直に語っている。「私が代理母になることを選んだのは、長年切望しているのに子どもができない人たちに、生命の贈り物をあげたかったからよ。それに私自身、子育ての重荷を自分で負うことなく、出産の喜びをもう一度体験したかったの」

 注意深い読者なら、本書の隠れたテーマは「母性はいかにして育まれるか」ということだと気づくだろう。本書には、日本の法律や制度を含め、代理出産を否定的に捉える側の意見や声が十分に紹介されていないきらいがある。そのため必ずしも明確になってはいないが、否定派には「母性は妊娠・出産した者だけが持つ」という前提があるようだ。本書の言葉を借りれば、「子宮は今も神聖化され、母性の源であると」信じられているわけだ。

 しかし果たしてそうなのか。「育てのお母さん、遺伝のお母さん、産みのお母さん」に分かれても、母性は育まれるのではないか、と著者は問う。では、母性はどこで育まれるのか。

 種明かしになるので、ここではそれを書けない。当たり前と言えば当たり前な、しかしやはり感動的である著者のその答えを知りたい人は、本書を手に取って欲しい。(細田雅大/2006年)

「逃げてゆく愛」

 ベルンハルト・シュリンク著
 松永美穂訳
 新潮社

ドイツ人の話だけれど、どいつにも当てはまる

 世界中で大ヒットしたらしいドイツの長編小説「朗読者」を、つい最近、たまたま読んだ。鋭く無駄のないメスのようなその文章でスパッと心を裂かれた私は、作中のある一文を読んで泣いてしまった。ザ・ブルーハーツが「情熱の薔薇」で歌ったように、その涙は「心のずっと奥のほう」からやって来たのだと感じた。良い小説を読んだり映画を観たりするとすぐに泣いてしまうたちだけれど、「心のずっと奥のほう」から涙を流させてしまう鋭さと強さの文章には、なかなか出会えない。

 その力の秘密が何か知りたかったので、すぐに「朗読者」を再読した。でも、よく分からなかった。今、「朗読者」は永久保存用段ボール箱にしまわれて、3回目を待っている。そして私は、著者ベルンハルト・シュリンクが、「朗読者」に続けて短編集を出していることを知った。それがこの「逃げてゆく愛」で、ここには7編の作品が収められている。

 メスのような切れ味の筆力は7編すべてで健在で、どれも素晴らしい出来映えだ。ユダヤ人収容所の看守を務めていた女性と年下の少年との関係を描いた「朗読者」と同様、いくつかの短編では、ドイツ特有の歴史的な状況に巻き込まれた人々が主人公である。どれも面白いけれど、アメリカという多民族・多宗教国家で生きている私たちに、いちばん直接響いてくるのは「割礼」という一編だと思う。この作品を紹介したい。

 「割礼」の主人公は、ドイツで育ち、奨学金を得てアメリカの大学でユートピア思想を研究中のドイツ人青年、アンディ。彼は、ユダヤ系のアメリカ人女性、サラと恋に落ちてしまう。彼女は、先祖がヨーロッパからアメリカに移住し、以後、ユダヤ教の戒律を守って暮らしてきた家庭の出身だ。幸せな時間を過ごす二人だけれど、時々、喧嘩をする。世の多くのカップルと同じである。そして、二人の出自が、彼らの関係に独特な影を落としていく。一方はドイツ人であり、他方は、ドイツ人に迫害され、土地を追われたユダヤ人なのだ。

 そのうちアンディは自問し始める。「あれか、これかの選択しかないのだろうか?(略)ドイツ人かアメリカ人、クリスチャンかユダヤ人?(略)人は結局、自分と同じような人間しか受け入れないのだろうか? もちろん違いがあってもかまわないし、違いがなければそもそもやっていけないだろう。しかし、そうした違いも、一定の枠内のものでなくてはいけないのだろうか?」

 アメリカにやって来て、日系コミュニティーから勇気を持って飛び出し、日本人以外の誰かと仕事や恋愛で深く付き合った経験のある人なら、多かれ少なかれ誰でも発したことのある問いではないだろうか。「ドイツ男とユダヤ娘の恋愛話か」と思い、ある意味、安心して読み進んでいた私は、途中から急速に自分自身の問題に近づいてきたので、ドキドキしてしまった。

 異なる宗教と文化を持つ二人が出会い、関係を築き、良い悪いは別にして、その関係を質的に一段階、変化させていく。そのプロセスが説得力をもって描かれている。(細田雅大/2006年)

「グレタ・ガルボの眼」

 マヌエル・プイグ著
 堤康徳訳
 青土社

過去を想起するダイアローグ

 「まさか、また彼の新しい本が読めるとは思わなかったよ。『グレタ・ガルボの眼』っていうんだ。僕が日本を離れた直後、1999年の秋に発行されているから、ずっと気づかなかったんだ」

 「だからって、何も泣くことはないじゃない」

 「だって、プイグの小説は、読む人をノスタルジックにしてしまうからね。僕も、やっぱり昔のことを思い出してしまったんだ」

 「私と一緒に暮らしていた時のこと?」

 「そう、だから君に電話したくなった。僕たちはいろいろ話し合いながら、南米の作家を読んでいたね。コロンビアのマルケス、ペルーのリョサ、そしてアルゼンチンのプイグ。世間の評価はいちばん低いんだけど、いちばん切なくさせる作家はプイグだって君は言った」

 「あなたのお気に入りは『蜘蛛女のキス』だったわね。でも、映画化されたのを観たら、がっかりしちゃったのよね」

 「だって、やっぱり小説を先に読んでいたからね。自分の中でイメージができあがっていたんだ。もし、『蜘蛛女のキス』の映画版しか観ていない人がいたら、ぜひ小説を読んでほしいよ。南米の文学に対するイメージや、ゲイの人々に対するイメージはきっと変わるだろうし、あんなにパワフルで切ない小説は少ないと思うんだ」

 「それで、新しい作品の方は、どうだったの?」

 「うん。驚いたことに、この作品はスペイン語ではなく、イタリア語で書かれたものなんだ。死亡した直後の91年、イタリアの出版社から発行されている。彼の遺作だよ。7つの短編が収められているんだけど、すべて、昔のイタリア映画がテーマになっている」

 「プイグは若い頃、ローマの映画実験センターに留学して、映画監督を目指した人だから、イタリア映画への憧れは強かったんでしょうね」

 「うん。そうだったみたいだ。訳者が『あとがき』で書いているんだけど、プイグは毎晩夕食後、隣に住んでいたイタリア系の母親と一緒に、だいたいいつもイタリアのコメディー映画を観ていたんだって」

 「プイグのことだから、短編小説といっても、ふつうの小説じゃないんでしょ?」

 「そうだね、例によって手紙だけで、あるいは二人の会話だけで成り立っている作品が多いね」

 「あら、じゃあまるで、この書評みたいじゃない」

 「今頃気づいたのかい? 今回の書評は、内容だけでなく形式についても、偉大なマヌエル・プイグへのオマージュにしたかったんだ」

 「よっぽど彼の新作がお気に召したみたいね」

 「もちろん気に入った。でも、まだ一冊もプイグを読んだことがない人は、まず『蜘蛛女のキス』とか『リタ・ヘイワースの背信』とか『ブエノスアイレス事件』とかを読んでほしいな。今回の作品は、プイグの新作はもう永久に読めないと思って悲しんでいた、僕のような読者が読むべきものだと思うんだ」

 「じゃあ、私も読んだっていいわけね」

 「もちろんさ。読んだ後、もし良かったら電話してくれるかい? 何だか、また君と話してみたいんだ」(細田雅大/2006年)

「坂口安吾 百歳の異端児」

 出口裕弘著
 新潮社

龍を見張る安吾を見守る

 村上龍の力作長編「半島を出よ」は、とても面白い。私は上下2巻を一気に読み終えてしまった。

 村上龍のことを現代日本を代表する作家の一人だと考えている私は、小説だけでなく彼のエッセイも、たまに読んだりする。実はエッセイは、小説ほど「凄いなあ」とは思わず、あまり記憶に残っていないのだけれど、あるエッセイの中で「中上健次と坂口安吾に見張られている気がする」と彼が書いていたことはよく覚えている。いかにも傍若無人に見える村上龍にもお目付役がいるのだと思い、意外に感じたのだ。

 念のために言うと、坂口安吾も中上健次も、もう故人だ。二人とも小説家である。私は中上健次の本はよく読んだけれども、坂口安吾はといえば、有名な「堕落論」くらいしか読んだことがない。私みたいな人は、けっこう多いと思う。

 第二次世界大戦直後の昭和21年、「堕落論」を発表し、「人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ」「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」と訴え、旋風を巻き起こしたという安吾。

 その安吾が、今年2006年、生誕100年を迎えた。それを記念してのことなのかどうか知らないけれど、フランス文学者であり小説家でもある出口裕弘さんが、坂口安吾の評伝を発表した。それが本書である(ちなみに、なぜ出口裕弘「さん」と敬称を付けているかというと、私の大学生時代、出口さんがフランス語を教えていらしたことを思い出したから。直接教えてもらう機会はなかったけれど、同じ学校にいらした先生を呼び捨てにするのは難しい)。

 坂口安吾は1906年生まれで、出口さんは1928年生まれだから、年の差は22になる。現役バリバリだった安吾を青春時代に読み、「昂奮し」「心を揺さぶられ」、そして「しんとなった」という出口さんは、これまでの60年近く、折りに触れて安吾を読み返してきた。そんな人が書く評伝だから、安吾を誉めちぎった内容になっているのかと思ったけれど、全然そうではない。帯の紹介文にある通り、安吾の魅力だけでなく「弱み」も大胆に語り尽くしているのだ。

 ドストエフスキーやバルザック的な巨大な小説を目指し、失敗を重ねた安吾。あまりにもひどい駄文を垂れ流し、読者を「唖然」とさせる安吾。出口さんは、そうした「弱み」を、むしろいっそう丹念に指摘していく。もちろん、愛があるからこそである。坂口安吾が村上龍を見張っているのなら、出口さんは安吾を見守り続けてきたと言えるのかもしれない。

 私は本書を読む前に、集英社文庫の「堕落論」も取り寄せ、まず安吾の作品をいくつか読み直してから、出口さんの評伝を読んだ。どちらか一方だけを読むよりも、いっそう充実した読書体験になったと思う。

 安吾が本当にやりたかったことは何かを探っていく、そういう意味では推理小説のような趣もあるこの素晴らしい評伝だけでなく、こうした読書の仕方もまた、皆さんにおすすめしたい。(細田雅大/2006年)

「コレラの時代の愛」

 ガブリエル・ガルシア=マルケス著、木村榮一訳
 新潮社

人生を変えてしまう愛

 コロンビアの作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスといえば、何と言っても「百年の孤独」が有名だ。大江健三郎や安部公房やジョン・バースやトマス・ピンチョンといった20世紀を代表する作家たちが、20世紀を代表する文芸作品として「百年の孤独」を讃えているし、1982年にマルケスがノーベル賞を取ったのも、主にこの作品の素晴らしさのためだ。

 しかし、もしどこかに「マルケスの本を読んでみたいんだけど、何がいいんだろう」と悩んでいる人がいるのなら、私は走って行ってその人の前に立ちふさがりたい。そして「百年の孤独もいいんだが、どうかコレラを読んでください」とお願いするだろう。もしその人が美女なら、自腹を切って本を買い、勝手にプレゼントしてしまうはずだ。私はそれぐらい、本書が好きである。

 85年のスペイン語での刊行から20年、待ちに待った日本語訳がついに出版された。スペイン語の読めない私が最初に英訳版を読んだのは大学生の時だから、ずいぶん待ち続けたことになる。「とにかく最高の恋愛小説なんだから読んでみてよ」と仲間たちに勧めても、日本語訳がないため彼らは手を出さず、私は20年近く歯がゆい思いをしてきたわけだ。ついにそれも解消である。

 登場人物に同じような名前が多い「百年の孤独」は、家系図を確認しながら読まないと混乱してしまいかねないが、本書の主要登場人物はわずか3人(だから、もしあなたが「百年の孤独」を読破できなかったとしても大丈夫)。そのうちの1人が、「陰気な感じで、ハンサムじゃないけど」「心に愛が一杯詰まっているって感じの」冴えない男、フロレンティーノ・アリーサだ。

 学校を中退し郵便局で見習いとして働いていたフロレンティーノ少年は、お使いに出かけた先で偶然、フェルミーナ・ダーサという美少女を目撃する。その瞬間、「半世紀たった後も終わることのない」愛の物語が始まる。ほとんど言葉を交わさないまま手紙をやり取りし、まるで病気のコレラのように、熱に浮かされた愛を育んでいくシャイな2人。ついに結婚まで約束した2人だが、美少女フェルミーナは「自分がとんでもない思い違いをしていたことに気づき」、フロレンティーノの愛を拒絶、ハンサムで裕福な医師、フベナル・ウルビーノ博士と結婚してしまう。

 そして51年と9カ月と4日後。長年連れ添った博士が事故死し、今や老婆であるフェルミーナが未亡人となった夜、彼女の前に再びフロレンティーノが現れる。明日にも死にそうな老人だというのに、あらためて彼は、永遠の愛を誓うのだ。驚きと怒りから、少女時代と同じように彼を拒絶するフェルミーナ。半世紀以上も待ち続けたフロレンティーノは、果たして永遠の愛の誓いを成就できるのだろうか。

 というように書くと、いかにも薄っぺらい「純愛物」のように響く。しかし本書は、そこらの甘ったるいだけの作品とは違う。「マディソン郡の橋みたいじゃん」と思ってはいけない。500ページ以上ある厚い本だが、「このような驚くべき文章を、私は読んだことがない」とピンチョンが評した最終章までぜひ読み進み、自分の目で確かめて欲しい。私がそうだったように、あなたの人生も、変わってしまうかもしれない。(細田雅大/2007年)

「全体主義の起原 1 反ユダヤ主義」

 ハナ・アーレント著、大久保和郎訳
 みすず書房

遅読のすすめ

 難しい本を読むのは、ふつう、あまり楽しくない。でも難しい本を、非常識なくらい時間をかけて、ゆっくり読むのは楽しい。

 私は今、政治思想家ハナ・アーレントの代表作である3巻本「全体主義の起原」、その第1巻である「反ユダヤ主義」を、本当にゆっくりと読んでいる。

 1日2、3ページくらい進む。3ページ進んで4ページ戻ったりしている。とても楽しい。意味の分からない言葉や、よく知らない歴史上の事件が出てくると、辞書で調べて余白に書き込んだりしている。まるで外国語の本を読んでいるかのように。

 数カ月前、まず私は、普通のスピードで第1巻を読んでみた。辞書も引かず、書き込みもしない。すらっと読み終えたけれど、何も分からず、何も残らなかった。第2巻「帝国主義」に読み進もうという気も起きなかった。だから、しばらく寝かし、態勢を整えることにした。

 こういう本は、ゆっくり時間をかけて、あるいは、読書好きの仲間と定期的に精読会を開いて読むべきだ。私はそう思ったのである。

 以前本欄でも紹介したことのある読書ガイド、太田出版の「必読書150」では、作家の奥泉光が本書を紹介している。「たとえば『社会』とか『国民国家』とか『帝国主義』とか『民主主義』とかいった言葉」は、「けっこう曖昧だったりして」「議論の場では、すれ違いや紛糾の原因になりがちである」から、「議論の混乱を避けるためにも、西欧の歴史の文脈のなかで言葉を吟味しておくことが必要だ」と奥泉は言う。奥泉によれば、そのために最適なのが本書である。

 ドイツでナチズムが台頭する以前、ヨーロッパにおける反ユダヤ主義の発生について論述する第1巻を、亀の歩みで読み進めている今、著者アーレントが例えば「社会」と「政治」という言葉を、お互いに対照的な意味を持つ語として機能させていることが分かる。もちろん彼女にとっては、「社会」という言葉も「政治」という言葉も「曖昧だったり」はしないのだ。酒場でクダを巻くどこかのオジさんが、「最近の政治は腐っとる」とか「社会が悪い、社会が」と言う時に使う「政治」や「社会」とは、純度というか明確さが違うのである。本書では「社会」も「政治」も、奥泉光が言うように「西欧の歴史の文脈のなか」にあるのだ。

 最初に通常のスピードで読んだ時の私は、これらの言葉の奥に見え隠れする「西欧の歴史の文脈」には思いが至らず、ただ字面だけを追っていた。「社会」と「政治」という同じ言葉を目にしてはいたが、あの時の私は、酒場で隣に座ったオジさんの愚痴を聞くのと同じレベルにいたわけである。

 ゆっくり読んで、初めて分かった。ハナ・アーレントは、酒場のオジさんではない(女性なんだから当たり前だが)。難しい本をゆっくり読んでいると、そういうことが分かる時が来る。だから、楽しい。(細田雅大/2007年)

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