top of page

引用『新しい文学のために』

2026年10月30日

​細田雅大

 読書会「私が見つけた異化」の開催まで、あと2週間ちょっとになりました。

 

 この読書会の発案者として、当然ながら私も、「異化」を見つけようとしています。

 

 しかし、これがなかなか、一筋縄ではいきません。

 

 そのうち「はて、そもそも異化ってなんだったっけ?」と、文学の路頭に迷ったような感じになってしまうのです。

 

 そのたびに私は、大江健三郎の『新しい文学のために』に、あるいは『小説の経験』収録のエッセイ「中野重治、佐多稲子の水」に立ち返るようにしています(ちなみに、どちらも冬營舎で閲覧可能です)。

 

 「異化」というロシア由来の考えを、日本でいちばん熱心に紹介した作家は、大江健三郎だと思います。

 

 しかし、その大江自身が、次のように書いているのです。​

 

 

 「異化」という方法論は、まことに明快に文学の原理をさし示しているものだが、具体的な作品にそくしてそれを語りなおしてみると、わかりにくいところも次つぎに出てくる。そのような意味的拡がりをはらんだものでもある。(p.6、『新しい文学のために』より)

 

 

 私は思います。「ノーベル文学賞を取ったほどのアンタに分かりにくいんだったら、そりゃ、俺に簡単に分かるわけないわな」と。

 

 私と同じように、「異化」を見つけようとして文学の路頭に迷ってしまった方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

 そんな方のために、ヒントになりそうな大江の他の記述を、『新しい文学のために』から引用したいと思います。

 

 「わかりにくいところも次つぎに出てくる」と書いている一方で、大江は、下記のような刺激的なことも書いているのです。

 

 あと2週間、私もまた、こうした記述に励まされて、「異化」を見つけようと思います。

​​

​*****

​

 

 「異化」は、言葉・文節・文章を、見なれない、不思議なものとする。「異化」された言葉・文節・文章を活字で印刷されたものとして読む側には、それらは紙面から立上がってくるように感じられる。言葉でいながら、ひとつひとつ粒だって、ものの手ごたえをかえしてくるように感じられる。(p.48)

 

​

 (「異化」の目的は)ありふれた、日常的な言葉の、汚れ・クタビレを洗い流し、仕立てなおして、その言葉を、人間がいま発見したばかりででもあるかのように新しくすること。いかに見なれない、不思議なものとするか、ということだ。すなわちそれが、言葉を「異化」することである。(p.42)

 

​

 (「異化」というものは)印刷された数行を読んで、または自分や若い友人が書いた原稿の一節を読みなおして、それが文学表現の言葉でありえているかどうかを、はっきり見わけさせてくれるのだ。(p.28)

 

​

 現実世界において、記号のように単一な概念的・抽象的な意味しかあらわさぬと感じられる事物、人間に、あらためてものの手ごたえをもどし、生きた血をかよわせ、多義的な意味をそなえた本来の事物、本来の人間にかえすこと。それをなしとげるのが、「異化」という文学の根本的な手法なのである。(p.186)

 

​

 よくサント・ヴィクトワール山はセザンヌの影響を受けている、という。それ以上に、全世界のヒマワリが、ゴッホの影響を受けているというようなこともいわれる。実際、ある岩山の肌やそのまわりの樹木の茂りを見る時、さきにセザンヌを見たことによって洗われた眼・感受性によってその対象のかたち・色あいをはっきりとらえることができるようになっていること、その新しい見方で対象を見ていることに気がつくことがある。ゴッホを見たことで活気づけられ、勢いをあたえられた眼で、花や木のかたち・色あいを受けとめているのに気がつくことがある。

 それは秀れた画家たちの「異化」する力、ものを「異化」してとらえるスタイルが、僕らに乗りうつるようにして、影響をおよぼしているのである。いうまでもないことだが、サント・ヴィクトワール山やヒマワリが影響を受けている、というのは冗談で、それらの絵の前に立つ僕らがセザンヌやゴッホの影響を受けているわけだ。作家も画家も、その「異化」する力、ものを「異化」してとらえ表現する文体・スタイルによって、人を影響づけるのである。(p.59)

bottom of page