手結のとんどさん
「大江健三郎往復書簡 暴力に逆らって書く」
大江健三郎ほか
朝日新聞社
手紙の力、愚直な声の力
1994年にノーベル文学賞を受賞した大江健三郎は、同時期に「燃えあがる緑の木」という小説を発表した。そして翌年、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きる。大江は、カルト集団を題材にとった「燃えあがる緑の木」と発表後に起きたサリン事件を比較し、小説に出てくるカルト集団の「対・社会の無制限の敵意と攻撃性について書いていない点」で、自分は小説家として遅れていたと認めるほかないと本書で告白している。
本書は、95年から中枢同時テロ後の02年まで、大江が11人の世界的な知識人と朝日新聞紙上で交わした書簡をまとめたものである。
ギュンター・グラス、ナディン・ゴーディマ、アモス・オズ、マリオ・バルガス=リョサ、スーザン・ソンタグ、テツオ・ナジタ、鄭義、アマルティア・セン、ノーム・チョムスキー、エドワード・サイード、そしてジョナサン・シェルという11人が、それぞれ数通ずつ大江と書簡をやり取りしている。
11人の名前を見たあなたは、「偉くて頭のいい面々が奇麗事を語り合っているのだろう」と思うかも知れない。しかし私が読む限り、本書に収められた手紙に一貫しているのは、巨大な事件に遭遇してうろたえ、「自分は小説家として遅れていた」と真剣に嘆いてしまう類いの、あくまでも愚直な声だ。奇麗事や斜に構えた発言は一切見られない。
11人の名前を見たあなたは、「自分の人生には無関係な難しい事を語り合っているのだろう」と考え、関心を失うかもしれない。それも違う。大江が後書きで記しているように、「コミュニケーションと暴力はグローバルなもの」となっており、今この書評を読んでいる誰であろうと、その網の目から抜け出ることはできないのだ。彼らが語り合っているのは、あなたの人生にも多かれ少なかれ関係する事柄だ。
読後、私の人生も少し変わった。彼らの愚直さに影響され、「もう嘘をつかないようにしよう」と決心したのだ。(細田雅大/2004年)
「恥辱」
J・M・クッツェー著、鴻巣友季子訳
早川書房
歴史に翻弄される犬のような父と娘
本書は、2003年ノーベル文学賞を受賞した南アの作家、J・M・クッツェーの代表作の一つ。
「ノーベル賞を取るような作家はどうせ難解だろう」とか「私が好きな■■と違い楽しく読めないだろう」とか思う人が多いかもしれない(■■には、各自、好きな作家の名を入れてよし。私の場合はスティーブン・キングかな)。
でも、少なくともこの「恥辱」は、そんな本ではなかった。まず、読んで面白い。
主人公は、南アの大学で文学を教える52歳のデヴィッド・ラウリー教授。かなりの女好きで、これまでも数々の教え子を手込めにしてきた様子。しかし、「大きな黒い瞳」で「イタチみたいに小狡そうな細い体」の女子学生にはちょっと真剣になってしまう。そのせいか、セクハラの訴えを起こされ、辞職に追い込まれてしまうことに。
ここまでなら、インテリが主人公の、どこにでもありそうな話。つまり、よくある恥辱。
ラウリー教授には、別れた妻との間にルーシーという娘がいて、彼女は黒人の多い農村地帯に一人で暮らしているのだけれど、教授が彼女を訪れ、共同生活を始めるあたりから、南ア独自の歴史が2人の人生に影を落とし始める。南ア独自の歴史とは、つまりアパルトヘイトのこと。
もちろん「アパルトヘイトがどうのこうの」「差別はなんのかんの」などと登場人物があからさまに議論したりはしない。「アパルトヘイト」の「ア」の字も出てこない。そんなのは歴史の教科書や、才能のない作家がすること。クッツェーには才能があり、そして本書はよく書けているので、アパルトヘイトとは何かを“知る”のではなく、アパルトヘイト後の世界で生きるとはどういうことか“実感”できるのだ。
南アの歴史に翻弄され、本当の恥辱に追いやられる父と娘。しかし、そこからしか見えない、どうやら希望と呼べそうな何かも“実感”できる。ただ“知る”のではなく。だからこそ本書は優れている。(細田雅大/2004年)
「アトランティスのこころ〈上・下〉」
スティーブン・キング著、白石朗訳
新潮文庫
長ったらしさこそ魅力
ニューヨーク・タイムズが、スティーブン・キングの本が前ほど売れなくなっていると報道していた。また「U.S. FrontLine」誌6月5日号の記事「日本のベストセラーをアメリカの読者に」によれば、「描写がだらだら続いたり、スピード感がない」分厚い小説は飽きられており、アメリカの読者は「物語全体が短くスピーディーに展開する日本の小説」を求めているのだという。
しかし私はあえて言いたい。世の中には短くてスピーディーな情報ばかり溢れているのだから(インターネットで読めるニュースとか)、小説ぐらいは長ったらしくて非効率的で無駄が一杯でもいいではありませんかと。長ったらしさや非効率性は小説の大事な要素だったのではないでしょうかと。
雑誌編集に携わる私は、毎日、短い断片的な文章ばかり相手にしている。そのせいなのか小説は厚ければ厚いほど嬉しくなる。その上で、読者を物語に引き込む力があれば最高だ。長ったらしい虚構の世界で現実を忘れているうちに、本当に大事な情報が何だったのか思い出すことができる。断片的な情報にまみれ生物としての感覚が麻痺してしまったような状態から抜け出せる。
本書を読み始めた時も私はそんな状態だった。「U.S. FrontLine」の特集2本(「アムトラックで行こう!」「アメリカ音楽の巨人たち」)を連続して仕上げ、穴だらけの原稿を100%の集中力で校正し続け、ニュースサイトをチェックする日々。断片情報にさいなまれ、なぜ雑誌を作っているのか分からなくなった。
そんな時にキングは最適だ。60年代とベトナム戦争がテーマである本書は特に、9.11以降の状況を予見しているようで(原著は99年刊)、読んでいる間、今この時をどう生きるべきか考えざるを得なかった。短い小説であれば、そんな時間もほとんど一瞬で終わる。(細田雅大/2003年)
「トランスクリティーク カントとマルクス」
柄谷行人
批評空間
日本最大の批評家による集大成(たぶん)
巨大な本である(分量ではなく中身のことだが、著者自身が言う通り「分厚い本」でもある)。これは、現代日本を代表する批評家(思想家、哲学者ではなく、批評家と呼びたい)が、「ほとんど10年間」取り組み、「改稿に改稿を重ね」「40年前から考えてきた諸問題に決着をつけることができた」本なのだ。
何通りにも要約し得るが、カントとマルクスの「理論」ではなく批判の仕方を取り出し、「トランスクリティーク」と名付けたその批判の仕方で、「純粋理性批判」(カント)と「資本論」(マルクス)を批判し直している本だと、とりあえずは言えよう。
だから本書は、「考えること(批判)」ではなく「理論を知ること」の方が好きで、例えばマルクスならマルクスの「理論」(「マルクス主義」と呼ばれる)を知ることで安心し、それ以上物を考えたくない人にはお勧めできない。
「トランスクリティーク」は、「移動なしにはありえない」。つまり「トランスクリティーク」とは、「何か安定した」「新たな立場」ではなく、考え続けることだからである。
難しそうだって? そりゃ確かに難しい。でも例えばカントの文章「君の人格とすべての他者の人格における人間性を、単に手段としてのみ用いるのではなく、同時に目的として用いるように行為せよ」には、一つも難しい言葉はない。難しいのは、この文章について考え続けることだ。著者は考え続けた。そして、資本主義の自動的運動を止める必要性に思い至る。そのために資本への「トランスクリティーク」(つまり「資本論」。「マルクス主義」ではない)が不可欠となるのだ。
「やっぱり難しそう」という人は、まず「倫理21」(平凡社)から。(細田雅大/2004年)
「日本精神分析」
柄谷行人
文藝春秋
凡百の「日本人論」はこれですべて無効に
批評家・柄谷行人の最近の関心を反映した4編、「言語と国家」「日本精神分析」「入れ札と籤(くじ)引き」「市民通貨の小さな王国」が収められている講演集。後半の3編は、それぞれ大正時代の短編小説を題材に語られている。
私がいちばん興味深く読んだのは、本書のタイトルにもなっている「日本精神分析」だ。題材は、芥川龍之介の「神神の微笑」という作品。
日本という国の特徴を表す時に、「無責任の体系」といったことがよく言われる。第二次世界大戦の戦争責任問題で見られるような、「責任を負う主体が日本には存在しなかった」という主張のことだ。曰く、「無責任の体系」こそ天皇制の秘密であり、この体系は日本社会に深く根付いている。曰く、外国のビジネスマンは「日本人と交渉するときは責任の所在が分からないので困る」と嘆く。なぜなら、部下と話せば「上司に相談しないと…」と言い、上司に話せば「では部下と相談して…」と言う、などなど。
しかし柄谷は、「天皇制を解体しようとして、それがいかに深い闇のなかに根ざしているか、などという理論家」の考えは「深い省察」と見なすべきではないと語る。「そんなものは偶然によるもので、たいしたことではないのだ、と考えるべきなのです」
柄谷が着目するのは、「漢字の音読みと訓読み」「漢字と仮名の併用」という日本語の特徴だ。芥川の「神神の微笑」が関係してくるのもここ。「神神の微笑」では「日本の霊」が登場し、こう語る。「たとえば文字を御覧なさい。文字は我我を征服する代りに、我我のために征服されました」「舟(しゅう)という文字がはいった後も、『ふね』は常に『ふね』だったのです」
「音読みと訓読み」「漢字と仮名の併用」が、「無責任の体系」や天皇制とどう関係する? そう訝(いぶか)しがる人はぜひ、50ページほどの長さの「日本精神分析」だけでも読んでみてください。難しいけれど、脳がかき混ぜられるような快感が味わえます。(細田雅大/2004年)
「憂国呆談リターンズ」
田中康夫、浅田彰
ダイヤモンド社
真っ当な物の見方がここに
小説「なんとなく、クリスタル」で一世を風靡し、阪神淡路大震災後のボランティア活動で名を馳せた長野県知事・田中康夫と、どんな肩書きを付けてもその領域横断的な活動を表し切れない気がする批評家・浅田彰の対談集。
タイトルに「リターンズ」とあることからも分かるように、この「憂国呆談」はシリーズ化されている。本書は3作目に当たり、2000年秋から02年夏までの間に2人が重ねた対談が収められている。
田中康夫の小説はどこが良いのか私には理解できず、このシリーズを読み始めたのも浅田彰が好きだからだが、対談での田中は小説の何倍も冴えている。00年の秋から02年の夏まで、ということは当然、中枢同時テロについても語られる。
「浅田 だいたい、ブッシュが最初から『これはテロじゃない、戦争だ』って言い切っちゃったじゃない? (略)だけど、少なくとも現在の国際法に則して言えば、これはあくまでも戦争じゃなくて犯罪なんだ」
「田中 『もし誰かが、あなたの右の頬を打ったならば、左の頬をも向けなさい』なあんて言葉はすっかり忘れて、『目には目を』どころか『目には体全体を』になっちゃってるんだから、アッラーの神も驚いてるぜ(笑)」
こうした「放談=呆談」が、中枢同時テロばかりでなく、02年夏の「田中康夫失職・再選挙当選」についても展開される。とはいえ難しい話ばかりではない。芸能関係にも話が及ぶので「政治の話はちょっとな」という人にもお勧めだ。
「田中 なんだろうね、いしだ壱成に稲垣吾郎」
「浅田 鈍いんだよな、あいつ。駐車違反ぐらいであたふたして、あげくの果てに公務執行妨害までついて」
本書帯には「過激トークが満載!」と謳われている。しかし2人のトークは過激でもなんでもなく、きわめて真っ当だと思う。(細田雅大/2004年)
「日の名残り」
カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳
早川書房
品格ある執事が主人公の品格ある小説
日本生まれの英国人作家カズオ・イシグロの名声を高めた本作。1990年に翻訳され、各書評欄で絶賛された記憶がある。しかし書評を読んでも、私の食指は動かなかった。それどころか、「過去を振り返る名家の執事が主人公の古臭そうな作品」という印象を持ってしまった。
そして先日、古本屋で1ドルで売られているのを発見した。定価であれば買わなかったはずなので、古本屋さんにお礼を言いたい。だって、素晴らしい小説だったのだから。
美点を挙げれば切りがない。例えば、ゆったりと心地良い語り(ナラティブ)。陽光の下、凪(なぎ)の日の海を進む船上のような気持ち良さ。エピソードだけでなく、ナラティブそのものが快楽的なのだ。
主人公にして語り手のスティーブンスの造形も素晴らしい。スティーブンスは、50年ほど前の階級社会英国で名家に仕える執事。彼が語る事柄はさらに昔の出来事。それを読む私は21世紀のニューヨークで働くさえない日本人。あまりにも違う二人なのに、いつの間にか私は、彼に深々と感情移入していた。スティーブンスがしっかり形作られ、そこに普遍的な人間のあり方が現れているからだと思う。だから私たち読者は、彼の悲しみを一緒に悲しみ、そして最後、彼が抱く希望を私たち自身の希望とすることができるのだ。
スティーブンスは、「偉大な執事」の特質は「品格」だと語る。しかしすぐに「品格の中身を定義すること」は「容易ではない」と釘を刺す。それはこの小説にも当てはまる。本作には「品格」がある。それはすぐに分かる。でもその中身を定義づけ、書評にまとめるのは難しい。
最後に一言。こんなに切ない小説も数少ない。(細田雅大/2004年)
「物語の作り方 ガルシア=マルケスのシナリオ教室」
G.ガルシア=マルケス著、木村栄一訳
岩波書店
楽しい楽しいブレインストーミング
「物語の作り方」という“ノウハウ本”的なタイトルにもかかわらず、小説や脚本などを書くための技巧を早く覚えたいという人には、あまり向いてないかもしれない本。コロンビアのノーベル賞作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスが主宰するシナリオ教室の議事録であり、要点が分かりやすくまとめられているノウハウ本とはまったく異なるからだ。
教室に参加しているのは、中南米の映画・テレビ関係者たち。一人一人が持ち込んだストーリーについて、全員が自由に意見を言い、より良いものを目指してどんどん変えていく様子が、小さな文字の2段組み、計400ページにわたってえんえんと再現されている。
大作家マルケスが開くシナリオ教室だとはいえ、マルケスが教える側に立つわけではない。参加者全員が、平等な立場から好きなように意見を言っていく。だから、マルケスの出したアイデアがあっさり却下されることもある。
映画のシナリオ、つまりフィクションの創造過程を再現したものだから、私が携わる雑誌編集という仕事にはあまり関係ないだろうと思っていたが、そんなことはなかった。彼らのブレインストーミングを読んで羨ましくなった。芸術作品に限らず、何かを創造するため、同じ熱意を持つ人たちと語り合うのは有意義だ。一人では思い付かなかったアイデアが出てくるし、何より楽しいし(マルケスも「こんなに楽しいものだとは夢にも思わなかった」と言っている)。
最初に提示されたストーリーが、ある一言をきっかけに変化し、磨き上げられていく。創造のノウハウが分かりやすい形で示されているわけではない。しかし、創造の秘密にここまで迫っている本も少ないのではないか。(細田雅大/2004年)
P.S. シナリオ教室もいいのだが、大傑作「コレラの時代の愛」(1985年)はいつ翻訳されるのだろう。
「戦場カメラマンが書いた イラクの中心で、バカとさけぶ」
橋田信介
アスコム
イラクで散った真のジャーナリスト
写真に対する感受性が鈍いため、私はカメラや写真にあまり関心がない。本書は写真集ではなく、戦場カメラマンによるイラク潜入記だが、それでもやはり、著者がイラクで殺害されたという事件がなければ、読むことはなかったと思う。
でも、読んで良かった。皆さんにも強くお勧めしたい。
本書で橋田さんは、私のような読者にも分かるように、味のある文章で説明してくれる。戦場カメラマンとは何をする人であり、戦場に立つというのがどういうことなのかを。
例えば橋田さんは、イラク行きのビザが発行されないので、ついに偽造してしまう。他人のビザをコピーして自分のパスポートに張り付けるのだ。そして断言する。「戦場ジャーナリストとは詐欺師である」と。
アメリカの侵略が始まり、スクープ映像の撮影に成功した橋田さん。しかしそれもつかの間、イラク情報省の役人と揉め、国外追放となってしまう。しかし、ここでもまた「詐欺師専用の得意のマインドコントロール」が働き始める。シリアのイラク大使館で橋田さんは、「どんな種類でもかまわない。とにかくビザをくれ」と言って交渉を始めるのだ。大使館員は「今はムジャヒディンのビザしか発給していない」と言う。つまり、米軍との戦いに参戦する義勇兵にしかビザは発行されないのである。
「日本人はムジャヒディンになれないのか?」
「そうだな、国籍は決まってはいないから、日本人だって――」
「俺は60歳を過ぎた。一人息子は結婚した。愛する女房には逃げられた。どう思う、俺の人生には他に何が残っている? 何も残っていないだろう。俺の命はすでにアッラーに預けてあるのだ」
周囲のアラブ男たちはドッと笑い、橋田さんはビザを入手し、イラクに再入国。そしてフセイン像の倒壊を目撃する。こういう人こそ本当のジャーナリストだと思う。(細田雅大/2004年)
「13歳のハローワーク」
村上龍著、はまのゆか絵
幻冬舎
ミもフタもない! だから役立つ職業ガイド
作家の村上龍が、13歳の子どもたちと「すべての努力家」のためにまとめた職業ガイド絵本。
本書の主旨はシンプルだ。この世には2種類の大人しかいない。「自分の好きな仕事、自分に向いている仕事で生活の糧を得ている人」と「そうではない人」である。そして、「自分の好きな仕事、自分に向いている仕事で生活の糧を得ている人」の方が、充実感を持ち「有利に」人生を生きていける。
では、「自分の好きな仕事、自分に向いている仕事」に就くにはどうすればいいのだろうか? いやそもそもどうやって「自分の好きな仕事、自分に向いている仕事」を見つければいい?
村上龍によれば、現在の日本の教育制度、そして子どもたちの周囲の大人は、この問いに答えることができていない。なぜなら、「いい学校」に入って「いい会社」に就職するのが一番合理的で有利な生き方だと考えられてきた時代の教育制度や思考法が、残ったままだからだ。もちろん今や、「いい学校」に入って「いい会社」に就職したところで、何も保証されたりはしない。
「自分の好きな仕事、自分に向いている仕事」を見つけるための「重要な武器は好奇心」。本書では、13歳の子どもの持つ好奇心に応じて職業が分類されている。例えば、「花や植物が好き」「音楽が好き」「虫が好き」などなど。もし「虫が好き」なら、そこには、「養蜂家」「養蚕家」「クワガタ養殖」など、好奇心を生かすことのできる選択肢が示されている。
職業ガイドに感動したりするのは変かも知れない。でも私は感動した。「何も好きなことがないとがっかりした子」や「何かに打ち込むための好奇心やエネルギー」を「学校の先生や親、あるいはいじめっ子」に奪われてしまった子のことも村上龍は考えていて、彼らへの言葉に優しさが満ちているから、なおさらだ。挿入されている絵も素晴らしい。「ぜひ一家に一冊」と勧めたくなる本だ。(細田雅大/2004年)
「リープ・イヤー」
スティーヴ・エリクソン著、谷口真理訳
筑摩書房
アメリカと合衆国の間で
スティーヴ・エリクソンの小説の特徴は、幻視力の強さだ。幻視力とは「実際には無いものが、存在するかのように見える力」のことである。
先代のブッシュとマイケル・デュカキスが争った1988年の大統領選。本書は、その経緯を追ったノンフィクションだが、ここでも幻視力は全開だ。取材のため転々とする全米各地で、エリクソンはサリー・ヘミングスを見る。この世の女ではない。サリーは、第三代大統領トマス・ジェファソンの奴隷であり、愛人でもあった黒人女性なのだ。
ブッシュにデュカキス、ゲイリー・ハート、ジェシー・ジャクソン。88年に大統領の座を目指した懐かしき彼らを批判するジャーナリスティックな文章の中に、突然、サリーは現れる。彼女の言葉だけが太字だ。
彼は死ぬまで奴隷解放に賛成していたけれど、もう若い時のように戦わなくなった。彼はわたしを愛し、自分がつくった国を前ほど愛さないことにしたの。彼はアメリカをつくった意味を汚さなければならなかったのよ。彼女はこういって、ふと口をつぐむ。あんまり急に黙るので、いなくなったのかと思う。でも最後の言葉がとてもいいづらそうだったから、彼女はまだそこにいて、話しつづける勇気だけがなくなったのだとわかる。彼はただの男だったのよ
エリクソンは「僕は合衆国ではなく、アメリカを愛している!」と叫ぶ。「アメリカ」とは、建国の理想が生きていた古(いにしえ)の国。「合衆国」とは、理念の失われた「アメリカ」の成れの果て。サリーは、「アメリカ」と「合衆国」の間に現れる。
大統領選が目前の今、メディアは連日、客観性や現実らしさに満ちた報道を行う。本書が扱うのは16年前の選挙だ。息子ブッシュもジョン・ケリーも出てこない。客観性や現実らしさは幻視力で粉々だ。でも私は、本書の言葉の中にこそ、この国の本当の秘密があるように思う。(細田雅大/2004年)
「ロック豪快伝説」
大森庸雄
文藝春秋
豪快すぎだぜベイベ~!
好きなミュージシャンの音楽を聴くのは、もちろんとても楽しい。でも、彼らの私生活のエピソードを知るのもまた、とても楽しいのはなぜだろう?
私は小説を読むのも好きだが、小説家の私生活を知っても、あまり楽しくない。例えば、ヨーロッパでの特派員記者時代、お金のなかったガルシア・マルケス(ノーベル賞作家)が、毎日同じゆで卵(鶏ガラだったかも)をダシにしてスープを作っていたと聞いても、「文豪も苦労したんだなあ」と思うだけで、感慨はない。
しかし、ミュージシャンのエピソードは違う。ふだん何をし、何を食べ、何に金を使い、誰とケンカし、誰と寝ているのか。そんなことを、どんどん知りたくなってしまう。
これはたぶん、作家よりもミュージシャンの方が、私たち一般人からずっと遠い存在だからだと思う。考え方も、ライフスタイルも、収入も、何もかもが私たちとはケタ違い。ミュージシャンに比べれば、たとえノーベル賞作家であっても、ずっと私たち一般人に近いのだ。
そんなことを改めて認識させてくれたのが本書(認識ってほどのことでもないが)。有名ロック・スター、ポップ・スターの私生活における奇行が、これでもかというぐらい紹介されていて、音楽好き(というかミュージシャンの私生活好き)にはこたえられない内容になっている。
例えば、「セックスは週に最低4回」という条件を提示したため、ベン・アフレックに煙たがられ始めたというジェニファー・ロペス。ヘロイン漬けの生活を改めるため、モグリの医者に大金を払い、全身の血液を交換してもらったというキース・リチャーズ。「人体に対して異様なまでの興味」を示し、「ローマ法王が虫垂を除いたと耳にすると、人を介して手にいれられるかどうかを打診し」「5万ドルを提示した」というマイケル・ジャクソン……。
……うーん、やっぱりミュージシャンは最高だ!(細田雅大/2004年)
「へんないきもの」
早川いくを
バジリコ
悪夢もふくらむ変な生物図鑑
子供の頃から生物図鑑が大好きだ。特に魚やカエルなど水中あるいは水際系の生物の図鑑が好きだった。
中学の生物の時間、ブリ、カンパチ、ヒラマサという、同じに見えて実は違う三種の魚の相違を語ることができたのは私だけだった(ほかの級友は全員、ブリしか知らなかった)。
「知っている魚の名前を挙げてみろ」と生物の教師に言われた私は、タイ、ヒラメ、フナ、コイなど有名どころが級友から出尽くした後、おもむろに手を挙げた。そして、生来の負けん気とイタズラ心も手伝い、愛読していた「世界の魚図鑑」で覚えた魚名を、片っ端から挙げていったのだった。
「ほほう。お前はカンパチやヒラマサまで知っているのか」と驚いた生物教師は、眼鏡の奥の細目を光らせた。中学生時代の数少ない良い思い出の一つだ。
そんな私なので、「変わった生き物だけを集めた図鑑」がよく売れていると聞くやいなや、すぐに飛びついた。そして、あまりの面白さに一気に読み終えた。それが本書である。
陸海空の「へんないきもの」が合計67匹(匹では数えられない種もいるが面倒なので匹で統一)、紹介されている。著者による紹介文と、白黒なのが物足りないとはいえ、実に見事に変な感じを描写している寺西晃氏のイラストがそれぞれに添えられている。
早川氏の紹介文は、読者を笑わせようという意図で徹底している。同氏の笑いのセンスがツボにはまる人にとっては良いが、そうでない人にとっては少しキツイかもしれない。とはいえ、早川氏のセンスは優秀なので、たくさんの人が笑い転げていると思う。
主役はもちろん「へんないきもの」たちだ。ボンボンを振って何者かを応援するカニ、皮膚病患者の患部を食う魚など、異形の魅力にあふれた生き物が紹介されており、夢ばかりか悪夢までふくらむこと請け合いだ。(細田雅大/2005年)
「他者の苦痛へのまなざし」
スーザン・ソンタグ著、北条文緒訳
みすず書房
遠い国の悲惨な写真を見るのはなぜ?
本書は、昨年末にこの世を去った米国の思想家・小説家、スーザン・ソンタグが2003年に発表した「Regarding the Pain of Others」の日本語訳である。小説ではなく、思想書である。
本書でソンタグは、新聞やテレビやインターネットで毎日のように「他者の苦痛」を伝える映像(主に写真)について考察している。
撮影者が戦場に出かけ「他者の苦痛」を写真に収めることが可能となって以来、多くの戦争が写真によって伝えられてきた。ソンタグは、これまでに撮られた戦争写真について、絵画や文学と比較しながら考え続けていく。
「他者の苦痛」が写真に撮られることには、そして、「他者の苦痛」を収めた写真をわれわれが見ることには、どのような意味があるのか?
また、この「われわれ」とは、いったいどのような特権的立場にある集団なのか?
ソンタグは安易な結論に飛び付いたり、思考の流れを明快な主張にまとめていったりはしない。これを彼女の誠実さの表れだとして評価することもできるが、戦争写真の周囲を堂々めぐりしているだけと思う人もいるかもしれない。
「心をかき乱す苦痛の映像」は「既存の勢力がもたらす巨大な苦しみへと注意を向け、考え、知り、調査をする」契機であり、「われわれの特権が彼らの苦しみに連関しているのかもしれない」と洞察するための導火線であるという認識が示される。この認識が本書の主張だと言えるかもしれない。しかし、こんな当たり前のことを言いたいがために本を一冊書くのは、そしてこんなことを確認するために本を読むのは、馬鹿げている気もする。
そう思ったので、もう一度じっくり読み直してみた。読後感は変わらなかった。現在の米国の知的状況は、こうした当たり前過ぎる認識すら本にして示さなければいけないほど危機的なのかと不安になった。(細田雅大/2005年)